まなぶたのくぼみ激しくなりし夏蝶も鳥らもさりげなくゆけ

百々登美子 『荒地野菊』 砂子屋書房 2020年

 

すんなり意味のとれる歌ではない。一読してまた読んでしまう。上句の強く体感を通してくるフレーズにどうしても惹かれる。

「まなぶたのくぼみ」が激しくなるとはどういう身体感覚だろうか。「まなぶたをくぼませる」ほどの激しい心の痛みがあり、それは記憶のなかのある夏のことだという。夏というとまっすぐに「戦争」の記憶に結びついてしまうが、それだけともいえない。

本来、夏という季節は、光と翳がくっきりとして、どちらかというとその闇の方が際立ってくる。夏の闇というのは、どうしても死の世界を喚起させてしまう気がする。他者の死、あるいはいつか訪れる自身の死も予期されるような「激しいくぼみ」。それは、否応なく背負ってしまう深い不安、あるいは畏れのあらわれなのかもしれない。

そんな場所からさりげなく放たれる「蝶や鳥」とは、抽象化された作者の想念そのものだろう。この蝶や鳥はかろやかに羽搏く自在な世界を手に入れているようには思えない。むしろ、重いものを背負わされて旅立つもののようだ。まるで苦しい魂を鎮めるためにそっと放たれる死者、あるいは使者のようだが、どうだろうか。

 

咲くこともたぶれのひとつ白ければ白にゆだねてゆくか椿は

 

これも不思議な歌。花をつけることは、狂気にちかいということか。ここには日常の世界から逸脱してゆきたいという潜在的な願望が見え隠れしているように思える。それにしても、手放しに異世界にのめり込んで遊ぶという奔放な振る舞い方ではなくて、かなり抑制が利いている。「白ければ白にゆだねてゆく」として、運命のようなものを見定めている。そのうえで、その見えない力に身をゆだねて、非日常の世界、ここではないどこかへ行ってしまいたいという強い断念が底辺にあるようにも見える。

こうした抑制された憧れ、あるいは観念への接近が、この歌集のふわりとした詩的な香気や日常から離れた格調のようなものを作り上げている。

季節のうつろいや草花も詠みながら、その視線はどこか遠いところへ逸れてゆく。その先には何が見えているのだろう。一緒に追っていきたい。

 

吊り橋を渉れるひとの振り返る橋の真中の風こそ春か