病苦より逃れんとしてキリストに触れたりし指どこまで伸びる

松村由利子 『光のアラベスク』 砂子屋書房・2019年

 

 

新型コロナウイルスによる感染が再び勢いをましている。命を守る行動を、という言葉もよく耳にするようになった。それは大切なことだと思う。

だけど、私たちは、いつかはそれぞれの死を迎えることを知っているし、その死にいたるまでに何らかの病気に襲われ、大なり小なりそれを苦しまねばならないことも分かっている。

できることなら、病苦からは逃れたいし、少しでも軽くなるものならと願わずにはいられない。だが、医療がどんなに発達しようと病苦がなくなることはない。むしろ長寿を手に入れるにしたがって、かえって自らの苦しみを引きのばしているようにも思える。

戦争、疫病、貧困、差別、など増殖する苦しみ、人類の歴史そのものが果てしのない病苦そのものだろう。この歌では、その苦しみを「指どこまで伸びる」とどこか不穏で生々しい表現によって具現化している。

 

ところで、イエスは病気の人を罪人と呼び、自分は罪人こそを招き入れると書き記されている。あるいは罪の報いが「死」であるとされたり、死にゆく運命にあることが「罪」ということであったりする。そしてその罪を許すのもイエス。しかしイエスの代償の死があったとしても、人類から病気や死が絶えることはない。この歌を何度か読んでいると、人類の抱えている絶望感がどこまでも伸びてゆくのだと言っているような気もする。

 

理由のない苦しみには耐えられない。罪と許しとの相関のなかに苦しみを理由づけることで救済が与えられる。作者は、そういう人類の苦しみにイエスのように寄り添っていこうとしているのだろうか。あるいは、その不可能性を抱えようとしているのだろうか。どちらにしても屈曲した情熱をはらんだ思想がここに捻じ込まれている。

 

ところで、聖書を読んでいると分からないことがたくさんある。 イエスは自らが犠牲になって、人々を罪から救い、永遠のいのちを与えたという。それは喜びではあろうけど、永遠のいのちって何だろうか。安らぎに到るまでに、イエスの赦しを得るまでに、もっと歩かねばならない。しかし思考はいつでも間に合わない。