岩尾 淳子


小さき鳥あかるく歌をうたふまに涙のごとき糞をして去る

 

十谷あとり 『風禽』いりの舎 2018年

 

小鳥の鳴き声がしている。だれに向かって鳴くでもなく、きまかせに気持ちがゆくままに鳥は鳴く。それは、聞くもののこころに差し込む明るい光のよう。しかし、それはつかのまのこと。鳥はふっと気持ちをかえて、どこへともなく飛び去ってゆく、濡れ濡れとした糞を残して。その一粒の糞は涙のようにはかないけれど、この世に残す一粒の命の足跡。

この歌は一羽の鳥の時間を平明に簡潔な言葉で描きながら、生きものの一瞬のかがやきや暗みに届いている。可憐な小鳥の姿に託されているのは存在のはかなさへの眼差しだろう。十谷あとりの歌は表情が豊かで、日常のなかのこまやかな抒情を掬っている。

 

古き曲ながれてゐたり柘榴笊に盛りたる木の実の店に

初詣に出でて戻れる子半日人に遭はぬもほのかにうれし

春の日の芝のなだりになにものかつぐみの命ひとつ走らす

神様またこんなところに肘ついて 桜あんぱん凹んでしもた

 

これらの歌には、町中の変わらぬ暮らしへの素直な郷愁や、市井に生きることのぬくもり、身の回りに生きる小さな命を見つめるいきいきとした躍動感や、自分をこえる大きな存在へのあこがれが明るく詠まれていて読むものの気持ちを洗うようだ。こういう歌を詠む作者はまさに、冒頭にあげた歌の小鳥そのもののように思える。

それにしても小鳥の歌はただ明るいだけではない。いつも空ばかり見ているようなあてどない寂しさがある。

 

水の上に降りやまぬ蕊おかあちやんもう乗らへんよ同じ舟には

もう戻つて来んでもええよほととぎす洗つてもそこが青い空なら

歩くよりほかはなかつた駅裏をひめぢよをんの花咲く売土地を

 

家族との深い軋轢がうかがわれ、それが幼い日の記憶を呼び込みながら歌に陰りある哀愁をもたらしている。二首目のように大阪弁で語ることで、生身のことばがどことなく寂しい情感をながしている。大阪という町をこよなく愛し、いつくしみながらその歌声はどことなくあてどなく寂しげだ。冒頭の歌の小鳥は、糞をしてさっさとどこかへ去ってしまう。この作者もどこかへ鳥のように飛び去りたいのだろうか。でもそれは、そう遠くないところ。あたたかい人の匂いのする隣の町かもしれない。