雨によごるる果実小鳥らのはらわたに累々として光りはじめん

高安国世 『街上』(「現代短歌全集」第14巻 筑摩書房より)

 

都会の街路樹だろうか。雨に濡れている木の実をさかんに小鳥たちが啄んでいる。果実は貪欲な小鳥たちに次々と飲み下されていく。眼に実際に見えているのはここまでの景である。その汚れた果実は小鳥らのはらわたの中に積み重なり、今にも光を放ち始めるであろう、と幻視する。雨の降る空間、濡れている果実、そこは「汚るる」という語で意味づけられている外部世界。それが果実を飲み下すことで、小鳥の内部へとなだれ込んでいる。外部と内部の境界が小鳥の身体をとおして侵食しあっている。

 

歌全体にどこか不穏で陰鬱な気分が流れている。それは韻律の不安定さにもよるだろう。上句をみると、「雨によごるる果実」10音+「小鳥らのはらわたに」10音と大胆な字余りにより頭部が重く、定型を崩すことで、ぐらりとする不安定さがある。韻律の快楽はここでは排除されているようだ。

 

また次々と重ねられるイメージも幻想的というより、かなり知的な操作による抽象性を帯びている。ここで伝えようとする内面とはなんだろうか。小鳥は自身のすがたの象徴であるとすれば、その臓器のなかで累々と重なって光っている果実、しかも雨の汚れを含んだ果実とは、現代へ社会の違和そのものをさしている気がする。

 

わたしたちは、もはや穢れなき自然から隔絶され、そのなかで安らぐことは許されない。与えられたのは、汚れた果実のみであり、それは飢えを満たし、からだを肥やし、こころを癒すのではなく、外部という違和として身体のなかで不気味に光を放ちつづけるだろう。

 

本来なら、木の実を啄む小鳥は、自然のなかでそのいのちのままに生きている清浄な存在であるはずだ。それがここまでデフォルメされ、抽象化せずにはいられないところに、現実へのこの作者の鋭い批評がある気がする。写実によらずに、抽象によってその時代性とそこに在ることの関係を可視化しようとする。ここには短歌形式をとおして苦しい問いかけがなされている。