会いたい人が夕暮れに帰りくる奇跡のごとくドアを叩いて

           花山周子 「外出」4号 2020年

 

夕暮れに帰ってくるのは、大概は一緒に暮らしている人。そういうのを家族と呼ぶのだろうけど、家族が帰ってくるのを奇跡のごとくとは言わない。

ここでは会いたい人がいて、いちどは自分のそばにありながら、離れて行ってしまった人のように思える。その人が帰ってくることを恋い願っている。「奇跡のごとくドアを叩いて」には、一度は聞いたノックする音が、今も寸分もかわらず耳に残っていて、せつなく残響しているかのようだ。

なんども読んでいるうちに、会いたい人、というのは、現実に存在する人ではなくて、はじめからいなかった人のようにも思えてくる。非在の対象だからこそ、永遠に追い求めざるを得ないし、叶わぬことだから何度も断念しながら希求する。自分だけの天使のように。

生きることの源泉にある悲しみをずっと追い求めているようにも思えて、美しい歌だ。

 

 

死ぬときに蓋を外されてしまう 蓋を外されて死ぬともいえる

 

蓋をはずされてしまうと中身がそっくり抜け出してしまいそう。この場合は死ぬときだから、抜け出してしまうのは霊魂だろうか。生きている時は、霊魂は肉体という器に閉じ込められている。それで何とか一体になって生存しているということか。それが抜け出てしまえば、あとは亡骸となる。蓋を外されるというけど、蓋を外すのは誰だろうか。人間を越えた得体のしれない存在が背後にある。運命の神が、きまぐれにちょいと蓋を外したり、閉めたりするだけ。そんな人間存在をしんと見据える認識がどこか箴言のようだ。生と死のからくりをさらっと書き留めていて、ちょっとぞっとした。

 

平岡直子

百貨店と駅が抱き合う入り口をうまくみつけることがすべてだ

 

百貨店から地下鉄の駅に抜けようとしているのか。入り組んだ通路はまるで迷宮のよう。絡み合った枝道をうまく解いて、ひとすじの道筋を発見したときの達成感は格別なもの。まるで、天国へのかがやかしい梯子を渡されたような感覚か。ここでは「抱き合う」という言葉の選択がとくべつな気がする。都市空間がそのままエロスを孕んでいるようで、新鮮な表現にはっとした。