人影のまつたく消えた街のなかでピエ・ド・ネエをするピエ・ド・ネエをする

石川信雄『シネマ』

今日の歌は1908年(明治41年)生まれの石川信雄さんの歌。
(某動画とかぶっていてすみません。この歌をやるといろいろ話が広がりそうなので。)
歌集『シネマ』から。昭和5、6年ごろの歌だそうです。
『シネマ』はモダニズム短歌とか新芸術派短歌とか呼ばれ、幻の歌集と言われるのですが、けっこう何回も復刻していて有名な歌集です。
わたしはちょうど去年の今ごろはじめて読んで、感じるところがあって気になるようになりました。

よく並び称される前川佐美雄『植物祭』もそうなのですが、『シネマ』はかなり口語的です。
口語、というか現代の言葉で短歌を書こうという試みは明治時代からあったのですが、
わたしが個人的に一番しっくりくるのはこのへんのモダニズム短歌の口語表現だな、
ということを『植物祭』と並べて読んでいて感じたのでした。

遠いところでわれを褒(ほ)めてる美しいけものらがあり昼寝をさせる 前川佐美雄

ひじやうなる白痴の僕は自転車屋にかうもり傘を修繕にやる 

こういうのが『植物祭』の歌です。
『シネマ』と共通していると思うのが、その口語性と一体になった世間への反発とかアウトサイダー性みたいなものです。

今日の歌を見ましょう。
「ピエ・ド・ネエ」はフランス語で「あっかんべー」のことだそうです。歌の意味としてはだから、あっかんべーを深夜(?)人の誰もいなくなったところでするということですね。
「あっかんべー」は人が見てないと意味がない。つまりまったく意味のないようなことをしているんですけど、それが「ピエ・ド・ネエをするピエ・ド・ネエをする」と2回繰り返される。
フランス語のカタカナ書きが「~をする」という日本語と奇妙な形で合体しつつ、句読点や字空けもなしにそのまま2回繰り返されるという、異様な感じの表現になっていて、何かがスパークしているのを感じます。
「ピエ・ド・ネエをするもう一度する」とかだとやはり弱いし、口語ならではの表現にもたしかになっていて、この感じを文語の助動詞をくっつけながら出すのは不可能な気がします。
それで、世間へねじれた反発みたいなものってその動力として感じますよね。「あっかんべー」の意味以上に歌の形としても。

こういうナンセンスとか反発、アウトサイダー性みたいなものはあきらかに『植物祭』の前川佐美雄と共通していて、二人が仲良しだったというのはよくわかる話です。

まあ、アウトサイダーといっても、ほんとのアウトサイダーというよりは、不良院生みたいな雰囲気が『シネマ』にはあって、人によるけどそのへんも味な気がします。

わたしは自分が口語で短歌を書いていることもあって、かつての口語短歌の姿に興味があります。古生代の生物はこんな形をしていたのか・・みたいな。せいぜい100年前なわけですけど。

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