永井 祐


花苑のような合唱の波のなか舌足らぬ聲を探しはじめる

石川信雄『シネマ』

『シネマ』からもう一首。
「花苑」は検索するとまず「かえん」と出てくるのですが、音数的には「はなぞの」なのかなと思います。その読み方でもいいみたい。とりあえず花のある苑でしょう。「聲」は「声」と同じです。
上句は「花苑」も「波」も比喩なのでいそがしいんですけど、それも含めて天国的なフィーリングというか、合唱の声に包まれて流されるみたいになっている。
それで、その声の中からはみ出してる声はいないかなと探している。
はみ出している声を見つけた、っていうのはわりとありそうなんですけど、
この歌の場合は積極的に探すんですね。
天国を満喫しつつ、それにも退屈して、はみ出している「舌足らぬ聲」を探してしまう。
子どもの合唱かはわからないけど、「舌足らぬ」には幼いイメージはありますね。
『シネマ』全体に流れるこういう感じってあって、都市空間が一種楽園的に描かれるんですけど、それゆえの退屈と、孤独に向かう心みたいなものが浮かんできます。

 

今宵また世におとなしき人人はプログラムなどを手にしてあらん

 

これも好きな歌。
「プログラム」だから劇場とかなんでしょうか。映画館でもあり得るのかな。
「世におとなしき人人」は、そこにいる人たちがシュールというか何か非現実的に異化されているという感じで、劇場とか映画館っていうものの雰囲気ってすごく出てますよね。
そして「人人」が目を引く。「ひとびと」と読んでいいのかなとも思いますが、ここではやはり「人々」とするよりこちらの方が効いているような気がします。
それで、こういう都市空間は外国っぽいんだけど、戦前の帝都東京になります。

 

山の手の循環線を春のころわれもいちどは乗りまはし見き

スウイイト・ピイの頬をした少女(をとめ)のそばに乗り春の電車は空はしらせる

 

 山手線きた! みたいな面白さもある。山手線に乗ってて二首目のようなフィーリングになったことなさすぎて、ゆえに読んでて興味深いということがある。

 

ま夜なかのバス一つないくらやみが何故かどうしても突きぬけられぬ

自らをポケツトのやうに裏返しわが見せし人は今どこをゆく

 

一首目はなにしろ「バス一つないくらやみ」が面白いかな。「バス一つない」って言わなくないですか。でも、街頭の雰囲気ってとても伝わってくる。
二首目も印象的で、上句は自分の内面を打ち明けたっていうような意味なんだと思うんですけど、「ポケットのやうに裏返し」は何かしゃれてるようでもちょっと手品みたいでもあって、打ち明けたわりに「自ら」は奥行きが見えずにつるつるした感じがします。

だんだん歌集の紹介みたいになってきましたが、次回はそんな石川信雄にあの斎藤茂吉がマウント取りに来るお話です。(引きを作ってみました)