川野芽生 『Lilith』 書肆侃侃房 2020年
「はるは」「はなの」と、「は」の繰り返しにうっとりしかかったが、次なる「は」は「はりつけ」だった。空気が一変する。「はりつけ」とは穏やかでない。
花の少ない冬が終わり春ともなれば、咲き出した花を人々が愛でる。花見にも出かける。だが、花は見られるために咲いているのではない。花にとって人々に見られるとはどういうことか。自らは動くことができず、そこにあって見られるだけのものであることは、磔にされているのと変わらない。花見の季節というのは、花にとっては残酷な季節なのかもしれない。
「磔」という言葉から連想するのは、イエスの十字架上の刑死である。あるいは、信仰を守りぬいた殉教者の姿。花を噴き上げる一本の白木蓮の姿が、そこともリンクしてゆく。
そして、ひとつひとつの花へと目をやれば、天へ真っ白な杯を捧げているように見える。ひとつひとつの花は、そのひとつひとつが天への捧げ物である。「捧げつ」という助動詞の使い方を見ると、そこに木蓮の意志を作者は見ているようだ。誰かに命令されてというのではなく、木蓮が自らの意志で花を咲かせている、と。
衆目にさらされ、磔にされているように見えながらも、花は自らの意志で咲いている。天に向かって、自らを捧げ物のようにして咲いている。白木蓮の花の盛りは短い。その短い時間を精いっぱいに、杯のような白い花を天へと捧げるのである。
葩 は花にはぐれてゆくものを夢 ゆ取り零されし残月
「はなびらは」「はなに」「はぐれて」と、この歌でも「は」が繰り返されているが、こちらは散りゆく花の寂しさに素直である。散りゆく花の思いに目を上げると、空には残月が夢から取り零されたように浮かんでいる。春の明け方の、まだ夢の中にいるようなぼんやりとした気分がたゆたう。
「夢」を「いめ」と、ことさら古い読みにし、つづきの助詞もことさら古い「ゆ」を用いているところ。古 の人と繋がる心のさまを意識しているのであろう。