水原紫苑 『如何なる花束にも無き花を』 本阿弥書店 2020年
碧玉色のキーウィを食べると、不意に気づく。「死はわが子、生まなかったわが子」である、と。キーウィから死、さらに生まなかったわが子へという想念の展開。
「瓜はめば子どもおもほゆ」という山上憶良の歌がもとにある。だが、ここで食べているのはキーウィ。キーウィの果肉の色は碧玉を思わせる。碧玉は古くより曲玉にもされ、曲玉は胎児のかたちであり、副葬品としても用いられたことを思えば、キーウィから死、さらに生まなかったわが子へという展開もなんとなく分かるような気がする。
それにしても「死は不意にわが子と氣づく」とはどういうことだろう。それまでは「生まなかったわが子」を思うこともなくきたということなのだろうか。あるいは、それは自分のなかで密かに封印してきたことだったか。そして今、その封印が解かれる時が来たというのか。
第一歌集『びあんか』には、このような歌があった。
宥されてわれは生みたし 硝子・貝・時計のやうに響きあふ子ら
汝の手にピエタはみどり 萌えいづる死を抱きていま蘇りたれ
一首目は、よく引用される歌である。硝子・貝・時計のように響きあう「子ら」を生みたいという。「生む」ということが、輝かしいイメージを伴って詠われているようだ。
だが、「宥されてわれは生みたし」の「宥されて」、ここにこの漢字が使われていることは素通りできない。『新字源』にあたってみると、「宥す」には「ゆるめる。おおめにみる。」とあり、同訓異義の解説には「手心を加えて、罪をゆるめ、ゆるしてやる。刑罰を軽くする。」とある。やはり、「生みたし」のもとにある深い翳りが気になる。
二首目は、「キリエ・エレイソン 生まれざりし者へ」という一連のなかの歌である。タイトルの中に「生まれざりし者へ」という言葉がはっきりと入れられている、祈りの一連だ。
「ピエタ」は、有名なミケランジェロの彫刻を詠んだとも取れるが、ここに既に「みどり」が「萌えいづる死」として出ていた。「汝」というのも、あるいは自らへの呼びかけだったのかもしれない。
封印が解かれる云々ではなく、最初から隠されていたわけではなかった。美しい詩的空間に置かれることによって、読者は作者の実人生に深入りすることなく、「虚実の間」に遊ばせてもらっていたということか。美意識の奥に、しんと潜んでいるもの、微量の毒のようなもの。それがあるからこそ、いっそう人はその歌に惹きつけられるのかもしれない。
宴果ててふと氣がつけば壺なりき高麗とよぶこゑの羞しさ