放心してわがちつくす冬野に目的不明の杭一つたてり

岡部桂一郎『緑の墓』

 

家にある本をぱらぱらとめくっていて、
この歌に目がとまり、でもけっこうよく引用されている代表歌なので、
他のにしようかと探してみたけれど、やっぱりかっこいい気がしてこの歌に戻って来てしまいました。

「目的不明」がかっこよく、また同時にダサいような気もします。かっこいいからダサく、ダサいからかっこいい。

ある観点から考えて見ると、「目的不明」は言い過ぎな気がします。
なぜ立っているのかよくわからない杭を描きながら、おのずから、「目的不明」が心に浮かび上がってくる、というのがたぶん正道。
直接言ってはいけない、描くことで浮かび上がらせましょう、みたいな話です。
これは短歌のセオリーみたいに言われることがあり、ゆえに逆に攻撃されたりするテーゼなのですが、短歌に限った話ではなく、けっこう普遍的なことだと思います。
アメリカなどの映画やドラマを見ていると「Show don’t tell」というのがライティングの基本として言われる場面が出てきたりします。「語らずに示せ」。脚本なんかだとわかりやすく、作品のテーマを主人公が長台詞で言ったりしてたらだめなわけですよね。ときどきそういうの見ますが、それは脚本会議でホワイトボードに書いてあるべきことで、台詞はそれを直接言ってはいけない。
俳優は、たとえば、そのキャラクターが傷ついているということを、台詞じゃなくて横顔のさびしさだけで表現しなくてはならない。

脱線しそうですが、そういう意味でいうと「目的不明」は言い過ぎなのではないか。
言い過ぎで強い言葉なので、杭の描写を越え、存在の無根拠性みたいな作品のテーマが直接はみ出ている感じがあり、ゆえに一本の杭のことを越えて、自分自身の存在の無根拠に立ち合っているというような読みも出てくる。
放心して冬野の道に立ち尽くしている。一本の杭がある。この杭は自分自身のことなのだと。これは別に間違っているわけでもない気がします。しかしながら、少し「ダサい」雰囲気は出てくる。
が、また角度を少し変えると、「目的不明」という強い言葉を投げかけることによって、杭がなまなましい存在として立ってくるという感じがする。

いずれにしろ、普通の意味で上手い歌じゃないと思います。
でも、ダサさスレスレの過剰で強い言葉を投げる向こうには、無頼の魂がある感じがします。
そういうのが心を動かしたりする。
何が歌のよさになるのかは、常に場合場合だと思います。

 

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