久我 田鶴子


ゆふぐれに足をひらいて立つてゐる七歳と五歳 私の孫よ

※「七歳」に「ななつ」、「五歳」に「いつつ」のルビ

池田はるみ 『亀さんゐない』 短歌研究社 2020年

 

夕暮れに、足をひらいて立っている二人の子ども。何でもかかってこい、負けないぞと言っているのだろうか。大地に足をしっかりつけて踏ん張っている感じが、実に頼もしい。

この七歳と五歳。結句の「私の孫よ」には、作者の誇らしげな様子が窺える。

孫の歌は甘くなるとよく言われるが、これは立派な孫歌だ。「私の孫よ」とまで言っているのに甘くなっていないのは、少し離れたところから一人一人を独立した人格として見ているからかもしれない。七歳と五歳では、まだ甘えることの方が多いのだろうが、この時の二人の凜々しい立ち姿。作者は、わが孫ながらあっぱれ!と思ったにちがいない。

 

補助輪のある自転車をこぎながら男三歳 窓下ゆけり

雨傘がふはふはゆける窓の下ちひさな足が運んでをらむ

 

この2首は、作者のいる部屋の窓下をゆく小さな者たちを詠んでいる。

まだ補助輪のある自転車とは言え、自転車をこいでゆくのは「男三歳」と言うべき姿なのである。昔、「男一匹ガキ大将」というマンガがあったのを思い出す。「男三歳」にはそれと共通する響きがある。粋がって補助輪付きの自転車をこいでいる姿を想像すると、思わずぷっと吹き出してしまいそうだ。

後の歌では、窓のところに見えているのは雨傘の動き。子どもの姿は見えない。「雨傘がふはふは」ゆくのは、それを運んでいる「ちひさな足」があるから。頼りなげに雨傘を運んでいる小さな足の存在を、作者は想像している。そして、「ちひさな足」という身体の部分から浮かび上がってくる小さき者の全体像。この表現によって、小さき者に寄せる作者の思いもたっぷりと膨らみをもって伝わってくるのである。