永井 祐


電球が切れてはずした何日か前 ここでひねりながら伸びながら

相田奈緒「太陽の位置で方角がわかる」

 

 

印象的で面白い歌だなと思いました。
主体の経験ということが書かれていて、それを追っていった結果、奇妙でぐにゃぐにゃした空間に入っているという感じがして、それが印象的でした。

やったこととしては、電球が切れていたので外したという話。
「何日か前」「ここで」なので、同じ場所に来て数日前のことを思い返している。下句はそのときの経験を追体験するように、入り込んで書かれている。
一つ複雑になっているというのは、「何日か前」のことが今ここで遅れてやってくるように、時間がずれているということ。
ちょっと極端に言うと、そのときは無心でやっていて、「ひねりながら伸びながら」の実感が数日遅れて後からやってきたみたいにも見える。

「ひねりながら伸びながら」は面白くて、
「ひねりながら」は電球を横に回転させてソケットから外すのをたぶん言っている。
「伸びながら」は電球が高いところにあるので、手と体を伸ばすことを言っているのでしょう。
「ひねる」は手首の動作で、「伸びる」は腕と体の動作なので、動きとして位相が違うと思うんですけど、ここではそれが並列されて、さらに主語や「~を」がなく、境界があいまいな「わたし」みたいなものがひねったりのびたりしているように感じられる。

時間がずれたりとか「わたし」がひねりながらのびたとか、
客観的に言えばただ電球を外したということが、こういう風に何かぐにゃぐにゃしてくるのは、すべて主観、というか主体の経験の中でそうなってくるのだと思います。
考えてみると実際の経験の中では主語とか「~を」ってあまり出て来ないような気がします。ただ「ひねる」がある。「私はつま先立ちして腕を伸ばし、手首をひねって電球を回した」はなくて、「ひねりながら伸びた」だけがある。
そして、思い返すという時間差によってさらにぼんやりしてくる。
余談ですが、スポーツ選手とか運動神経のいい人って、こういう感じにはならないような気がちょっとします。あいまいでぐにゃぐにゃした動作の経験を、もっと客観的に整序しながら実行できるのかもしれない。

この歌は、音の構成も少し変わっていて、
三句が「何日か前」で7音、下句が「ここでひねりながら伸びながら」というのが普通の見方かと思うんですけど、
三句の7音がちょっと伸びてるので、
伸びてる分を四句に繰り入れて「前 ここでひねり」結句「ながら伸びながら」というリズムもうっすらと見える。
いずれにしろ三句の字余りが下句の出方にけっこう干渉している。
こういう形式上の少しのずれと歌の持っている感覚は同期していると思います。

新しい電球はつけたのか。

 

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