永井 祐


夜泣きする妹の子を覗き込むおおきい蜘蛛かもしれない私

小島なお『展開図』

 

夜泣きだから、まだ赤ん坊ですよね。
ベビーベッドみたいなところにいる。柵がついているから、「覗き込む」ような形になる。そういう状況を想像しました。
赤ん坊を上から見たことは何度かある。彼らはいるスペースがわりとはっきりしていて、訪ねてきた我らはそれを上から覗く。
その上から覗いている自分が「おおきい蜘蛛かもしれない」と思ったという歌かと思います。

蜘蛛は脚が長いので、目は上の位置にある。大きい蜘蛛となると地にあるものはだいたい上から見ることになるのかもしれない。
この目線の位置が「蜘蛛かもしれない」の大きなもとになっているような気がします。
自分の影が赤ん坊の上に落ちている。蜘蛛も下にあるものを見るときは、自分の影が及んでいることが多いのかも。
蜘蛛ってこんな感じかもしれない。

「おおきい蜘蛛かもしれない私」はこう、何かすーっとした言い方で、ここが好きでした。すーっとしたというのは、特に感情なども交えないような、「夜泣き」をなんとかしようとか考えるもっと以前にすっと思ったこと、みたいな感触がありました。

「蜘蛛かもしれない」は、実際は類似のいろいろな表現が考えられて、つまり、「私は蜘蛛のようだ」も「私は蜘蛛だ」も退けられて「蜘蛛かもしれない」が出てきている。
そして「私」の体言止めで終わっているのも大きくて、下句は「私はおおきい蜘蛛かもしれない」ともできそうなところ、それも退けられている。
さらに「おおきい」は「おおきな」でもあり得そうです。
これらすべての選択肢の中で一番すーっとしたものが、言い換えると一番虚ろなものが選ばれているという気がして、そこが印象深かったです。

「私が~かもしれない」という歌は、表現が変わりながら歌集にいろいろ出てきます。
それで同時にこう、人が突然いなくなったりする歌もけっこうたくさん出てくるのですが、その二つは何か通じているようにも思えました。
以下はいなくなる歌。

 

失踪者ふえてしずかな十二月合図のように石蕗の咲く

大船のような大叔父煙草吸って声よく響き突然死せり

酒飲んでバイクに乗って事故死した知人に二十歳の雪いくたびも

ひと冬をかけた手品のようだった窓の景より三棟が消ゆ