ふゆ日和ほつかりと浮く白鳥の一羽と九十九羽の不在

渡辺 松男  角川「短歌」2021年3月号

 

「九十九羽の不在」と題する28首の中の一首。

冬晴れの空に、ほっかりと浮く白鳥。上の句の穏やかな情景に対して、下の句の「一羽と九十九羽の不在」。ドキリとした。

冬晴れの空にほっかりと浮いているのは一羽だが、そこには九十九羽の不在があるということ。そんなことは思ったこともなかった。「不在」の存在。

実際に目に見えているのは、ごく一部にすぎず、そこには見えてなくても、どこかにちゃんと存在しているものがある。しかも、そちらの方が実際に目の前に見えているものよりも圧倒的に多いのだということ。それは、考えてみれば当たり前のことなのに、ふだんはそんなこと思ってもみない。忙しく目の前のものばかりを追いかけて、目の前に見えていないものについては、まるで全く無いかのように暮らしている。

「不在」の存在。それを強く思うのは、作者が置かれている状況も影響しているのかもしれない。

 

世界をちぎり白鳥飛ばすおなじ手がわたしをずつとベッドにとどむ

手のひらのぬくみ背中に欲しきとき背中にありぬ手のひらの無が

 

白鳥を飛ばしている同じ手が、「わたし」に対してはずっとベッドにとどめていると詠う。人間を超えたもの、それを「神」と呼んでいいのかどうかは分からないが、「わたし」が動けずに、ずっとベッドにとどめられているのも何者かの力によると考えているのだろう。自分ではどうすることもできない。

ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者である作者。

見える範囲は、限られている。病室の窓は、さらに見えるものを限る。そこに見えた「冬晴れの空にほっかり浮く一羽の白鳥」。それは一瞬の僥倖みたいなものだったかもしれないが、作者はそこから更に「九十九羽の不在」に思いを馳せる。

ベッドの上にあって、思索は深く、そしてまた遥か遠くまでゆく。限られた視界は、限りない視野をひらいてゆく。そのしなやかな強靱さは、いつも私にあなたはどう生きているかと問いかけてくるものでもある。同年同月生まれの、松(松男さん)と鶴(田鶴子)。そんなことに、一方的にえにしを感じつつ。

「手のひらのぬくみ」の歌でも、「不在」の存在が詠われている。背中に手のひらの温みが欲しいときに、それが無かったということを、「手のひらの無」が背中にあったと詠う。そういう詠い方をする作者に、私はこころを飛ばしている。

 

 

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