※「欣求」に「ごんぐ」のルビ。
黒瀬 珂瀾 『ひかりの針がうたふ』 書肆侃侃房 2021年
なめこが欲しいと大泣きする吾児(わが子)。
その泣き方たるや凄まじい。「生のなべてを振り捨てても」というくらいの泣き方である。なめこをくれなきゃ死んでもいい、というくらいの求める勢い。しかも、「欣求」である。「欣求」は仏教の言葉で、よろこび求めること。
さすがは、僧侶の子と言うべきか。僧侶の作者から見ると、欣求しているように見えたのであろう。それにしても、なめこを欲して「欣求する」とは。なめこ好きも、ここに極まったり、である。
いや、そうではない。ただひたすらに、真っ直ぐ何かを求める。少しの邪心もなく、己の欲しいものを求めて譲らない。それこそ仏教の「欣求」に通じるものなのかもしれない。
なにがなんでも今すぐにくれと幼い子どもが泣き叫ぶさまは、まさに〈いのちのパワー〉を感じさせる。小さな身体はエネルギーの塊であって、大人にはとうてい太刀打ちできるものではない。さて、どうする? 欣求に従い、すぐになめこをあげるか。しばらく泣き叫ばせておいて様子を見るか。
もはやわが生み得ぬ歓喜ここにあり出汁巻き卵に児は歌ひ出す
こちらの歌では、出汁巻き卵を前に大喜びして歌い出した子どもを詠っている。
その自然な、心からの喜び。自分にはもう、そんな歓喜を生み出すことはできないと、子どもの歓喜する姿を見つめている。「もはやわが生み得ぬ歓喜ここにあり」に溢れる、子どもが持っている素直さに対する感嘆の念。
この素直さ、真っ直ぐな気持ちを、成長するにつれてだんだんと人は失っていく。人が成長する、あるいは、大人になるというのは、どういうことなのだろう。