結局はこの人から生まれたのだ蟬のしき鳴く未明ちかきに

永田 淳 『竜骨キールもて』 砂子屋書房 2020年

 

父、永田和宏。母、河野裕子。妹、永田紅。言わずと知れた歌人一家である。それぞれの作品の中に、それぞれが登場する。常に家族の中で、詠う側であるとともに詠われる側でもあるというのは、どんなものなのだろう。ごく普通の人間としては、考えただけで苦しくなる。

この一首は、死に近い母を前にした、息子の歌である。

かつて、河野裕子は出産をこのように詠った。

 

産むといふ血みどろの中ひとすぢに聴きすがりゐて蟬は冥かりき

しんしんとひとすぢ続く蟬のこゑ産みたる後の薄明に聴こゆ

『ひるがほ』(1975年刊)より

 

8月20日、永田淳の誕生。作者の誕生は、夏の未明の蟬の声とともに詠われていた。「冥かりき」「ひとすぢ続く」には、死と生がひと続きにある。「生と一緒に死というものをはらんでしまった」というのは、河野裕子の有名な発言であるが、そこに実態としてあった作者の誕生だ。歌人であり、自分の母でもある人の作品や発言を前にして、息子はどれほど冷静でいられるものだろうか。苦しく思うときもあったのではないか。

だが、死が迫った母に寄り添いながら、これまでのすべてが受け容れられたのだろう。「結局はこの人から生まれたのだ」には、諦めのような安堵のような響きがある。

 

死をも孕んでしまった肉叢が自らの死に呻くが聞こゆ

死に近き冷たき腕に抱かれぬいい子だったよと繰り返すのみの

 

やはり、稀有な母と子の繋がりと言うほかはない。そして、母亡き後の、次の歌を読むとき、自分もまた詠い続けるという覚悟が見えるようである。

 

この世にて母の子であるほかはなし日向の落葉掃き寄せながら

 

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