永井 祐


階段を松ぼっくりが落ちてきてあと一段の所で止まる

相原かろ『浜竹』

 

好きな歌でした。
「あと一段の所で止まる」に何の意味もないというところが好きですね。
松ぼっくりが落ちてくることにも別に意味があるわけじゃないと思うんですけど、一首に無意味があらわれる(?)のは下句を待たなければならない。
上句の段階だと「どうなるのかな」という感じで、
起承転結、そのことにオチがつくのを普通に期待するわけですけど、
この下句は基本的にそれを裏切っていて、何一つ起きない。「止まる」を言うことでそれが決定的になる。
そうなんだけど、それが「裏切り」とか「アンチクライマックス」になってしまうと、それもまた意味になってしまうということがあると思います。
そこのところが難しくて、一首が終わったときに<無意味>に開かれているところまで行ければ、すごいことなんだと思います。
「最後まで落ちきらず」みたいなことだと意味っぽくなるし、
「あと三段の所で止まる」だと、なんかこう、逆にわざとらしくなってくる。

角度を変えると、「あと一段だったな」という「松ぼっくり」に対する感情移入みたいなものは、あるのかもしれない。
あと一段落ちきらなかった、発動した「出来事」とか「物語」が未遂で終わりになった「松ぼっくり」は、そのことによって、また違う生彩を帯びてくるというか、わたしはなんとなく「かわいいもの」に見えるような気がします。

「意味」になりそうなところで未遂に終わり、何か別のものになるという歌が、歌集『浜竹』ではいろいろ見られました。ほとんどそういう歌な気もします。

 

煌々とコミュニケーション能力が飛び交う下で韮になりたい

 

「煌々と」光っている「下」にいるわけなので、主体はコミュニケーションがあまり上手でなく、流暢に交わされているそれの中でちぢこまっているのかと思います。
そうなんだけど、これも一首は「疎外感」とか「だめな自分」とか「上手くやってるあいつら」みたいなところにオチそうでオチない。
「韮」のニュアンスによってですね。説明しがたく、雑ですみませんが韮は韮っぽく下の方で生えてますよね。青々と。
この一語によって一首は「疎外感」とか「アンチ・コミュニケーション能力」という意味に落ちていかない。意味からずれて無意味のほうへ、何か別の生彩を持ったものへと向かっていく。そしてこの場合も、「韮になりたい」はなんとなくかわいい感じに響いているような気がします。