久保田 登 『手形足形』 いりの舎 2021年
口にしたら消えそうなものが内側から起こってきて、しばらく黙り込む。そういうことはある。
言いたいような、でも、言ってしまったらそれでお終いになってしまいそうで、会話の途中だというのに黙り込んでしまう。「口にすれば消えさうなもの」というのが、そうとしか言いようがない感じだ。
言わんとすることが微妙で、それを言葉にしようにも、どんな言葉もしっくりしないということもある。
言わぬが花、それを言っちゃあお終いよ、ということもある。そういうときは、奥ゆかしく黙っているのがいいだろう。
口にした途端、大切にしていたものが心の中から抜け出して、後には何も残らないということもあるだろう。口にしたら消えてしまいそうな儚いものなら、いっそう黙って、いつまでも心の中に留めておいた方がいいのかもしれない。
一首は、さりげなく始まり、「しばし緘黙」で止まる。まさに「しばし緘黙」の態である。「緘黙」という熟語を使っているのも、ストンとそこで動きが止まる感じだ。そして、一字空けで結句の「会話のさなか」が来る。ごく自然な運びで、余計な感情は交えずに一首が着地する。
会話の途中で急に黙り込んだ人の内面では、口にされる以前の言葉が静かに、けれども熱をはらんで渦巻いているようだ。
もつと怒れと人をけしかけ飛びまはる熊ん蜂けふは胡瓜の畑
全身を覆ふ皮膜のやうなもの食ひ破るべし歯の鋭きうちに
怒りを露わにしたり、激しいもの言いをしたりはあまりしない人なのだろう。穏和で、中庸を好むといった人柄。そういう人だからこそ、時には自分自身に対して「もっと怒れ」とも、「おのれ自身を食い破れ」とも思うことがあるのだろう。そして、黙らずに、もっと怒りを露わにして言わなければならないことが世の中にはたくさんあるというのも事実だ。
風にとつては人も欅もおなじこと がうつがうつと吹き過ぎて行く