久我 田鶴子


坂道を自転車おしてあがる間に東馬込一丁目の街灯ともる

徳重 龍弥 『暁の声、群青の風』 青磁社 2020年

 

ゆっくりと自転車を押して坂道をあがっている間に、東馬込一丁目の街灯がともる。

そこは、東京都大田区の東馬込一丁目である。時は黄昏、街灯が点るような時間帯。

この辺りは住宅街として発展しているところで、一日の仕事を終えて家に帰る途中なのかもしれない。急いでいる様子はない。自転車を押して坂道をあがっているのは、それほど坂が急だからとはちょっと思えない。この時間をゆっくり楽しみたいという思いでもありそうだ。誰にも邪魔されず、一人なのかもしれない。いや、あるいは誰かと一緒で、その人と歩調を合わせながら自転車を押しているのかもしれない。

それにしても一首の中で、4句目がやたらに長い。「東馬込の」ならば、ちょうど7音で定型に収まるのに、敢えて「東馬込一丁目の」とくる。「東馬込」というよりも、より限定された地域名が示すリアルさ。それに「丁目」は、市街地を中心に設けられていることから、「馬込」(もともとは牧場であったことが地名の由来)という地名でありながら都市部であることも伝わる。ここはどうしても「東馬込一丁目の街灯ともる」である必要がある。かなりの音数オーバーも、地名として圧縮させて読めばなんということもない。

街灯が点るような時間帯ということもあってか、静かだ。東馬込一丁目に点る街灯を眺める目には、その土地を、そこに住んでいる人々を愛おしむような視線も感じられる。

 

からからと補助輪つきの自転車がひなたの道を行き来しており

 

この歌も自転車だが、補助輪つき。乗っている人は描かれていないが、たぶん幼い子どもなんだろう。からからと音をさせて行ったり来たりしてところみると、一人遊びに夢中になっているのかもしれない。

 

もうひとつ向こうの橋を自転車の一台過ぎてまた一台が過ぐ

 

「もうひとつ向こうの橋」という橋の出し方が面白い。自分も橋の上にいながら、けれどその橋ではなく、「もうひとつ向こうの橋」を渡ってゆく自転車を見やっている。「一台過ぎてまた一台」というのだから、どのくらいの時間そこで眺めていたものか。そして、ここでも直接的には人が描かれていない。自転車を描くことで、当然そこにいるはずの人を思わせる。人の暮らしが、景のなかに静かに立ち現れてくる。