苦しみて生きつつをれば枇杷びははな終りて冬の後半となる(番外編)

佐藤佐太郎『帰潮』

 

あまり一首評ばかりやっていても飽きてくるので、今回はちょっとワンテーマというか、番外編的な話をしようと思います。
わたしは作者の定型感覚みたいなものが常に気になります。短歌形式にどういうアプローチをとるのかということは、ときに内容以上にものを言う。それは、短歌の下部構造、身体で言えば下半身みたいなものだと思います。

それで、ずっと一首評をしているとだんだん、初句で余るやつと二句で余るやつがいるんだなということがわかってきました。今までの中からいくと。

 

わがへやの机に肘つきてをりしときうしほのごとく来にし夜かも 佐藤佐太郎

生れたるばかりにて危険を知らぬ蠅われのめぐりにしばらく飛びつ

 

佐藤佐太郎はけっこうはっきりと二句で余りがちなやつだと思います。二首とも二句が二音余りの九音。ほかにもたくさん二句余りがある。
そもそも一、二音ぐらいの余りはよくあることで、破調というようなものでもないわけですが、それでもぐいぐい伸びがちなパートというのは作者ごとにけっこう決まっている気がします。

 

おおはるかなる沖には雪のふるものを胡椒こぼれしあかときの皿 塚本邦雄

橋の上に一尾落ちたる飛魚がふるへるほど美しきフィレンツェ

 

塚本邦雄の場合は、今までやった二首とも初句で余っている。一首目が「おおはるかなる」7音、二首目が「橋の上に」(うえと読んで)6音。二句三句の「沖には雪のふるものを」「一尾(いちび)落ちたる飛魚が」は余りそうな気配がない。塚本邦雄で初句5音二句9音というパターンはちょっと思いつきません(あるのかな)。とりあえず代表させますが、初句が6音以上によくなる作者というのは決まっている。

初句余り派と二句余り派がいる。そしてまた、このことが意味するのは、余りが出がちな句が突出して大切ということではない。
佐藤佐太郎に関して言えば、なぜ二句で余るのかというと、おそらく初句が非常に固いんだと思います。初句五音がかなり固いので、歌の上で必要な言葉がどんどん二句に入り込んでいく。ゆえに二句が長くなるのかと思います。
そう思って読むと、初句が厳として見えてくる。

 

苦しみて生きつつをれば枇杷びははな終りて冬の後半となる 佐藤佐太郎

 

たとえばこの歌の初句「苦しみて」など、「絶対に余ってはいけない初句」のように見えないでしょうか。この歌の場合は二句も余っていないわけですが、その作者の定型感覚のキモがわかってくると、目の前の一首の具体的な余り以上の各句の強弱や音韻上のニュアンスが見えてくる気がします。

おおまかにいうと、時代が古いほうが初句で余らない気がします。ひょっとしたら塚本邦雄の初句七音の影響はあるのかもしれない。口語短歌でも初句で余るものは多いと思いますが、昔の人のほうが初句五音を固く感じていたとも言えるかもしれない。

以上は、当然ながらよく調べたものではなく、なんとなく思ったというに過ぎません。また、佐藤佐太郎にも初句余りはあるし、一人の作者でも時期ごとに定型感覚が違ったりします。

でもこういうことについて考えるのは、面白いし意味がある気がします。

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