痛き玉にもてるごとしふるさとの秋の夕日の山をあふげば

若山牧水『みなかみ』

 

 

手元にある岩波文庫『若山牧水歌集』から。大正元年ころの歌。
最近は秋ですが、牧水は秋がだいぶ好きだったと思います。歌はたくさんあり歌集を開いていると一年の三分の一くらい秋だったみたいに見えます。

不思議な歌ですよね。「痛き玉」が唐突にも見えて印象に残りました。
古典などに元ネタがあるのかもしれませんが、よくわからない。ただ「痛い玉」なのかと思って読みました。
夕日がふるさとの山に沈んでいく。秋の空気が澄んでいる。
とてもきれいだけれど、痛い玉を手に持っているようである。
「痛き」というのは、空気が澄み切って透明で、ものがみな鋭くなるような秋の季感と、やはりつながっているものなのかと思います。

一首の中で目立つのは、1音字余りの「掌にもてるごとし」の部分で、ここのところが特に自我や感情の表出のようになっているかと思います。
三句から後のゆったりしたトーンと音韻的にも雰囲気がちがう。「痛き玉」の痛さをあらわすように、語の流れがごつごつしていると気がします。
「掌にもてる」がいいと思うんですけど、どんな感じなんだろう。たとえば胸が痛いとか心が痛いっていうことと違っている。もっと具体的で、痛い玉を手に持ってるみたいなんだよ! と言っているのかと思いました。

それでなぜ夕日のふるさとの山に向かって痛い思いをしているのかというのは、
伝記的な説明があったりします。
これは父親の病気の知らせを受けて故郷の宮崎県坪谷に帰っているときのもので、病気は心配していたほどではなかったものの、甲斐性なしの長男めとむしろ怒られ、親族中に罵倒されたりしていたとのことです。東京に帰っていろいろやりたいと思いつつ、十ヶ月くらい地元で暮らす。「何年かぶりに、九州の山をいま、眺めてゐます、なぜ、子供のやうな心になつて、歓ぶことができないのでせう」と友達への葉書に書いている。
ちょっとクリア過ぎる伝記的説明でどうかとも思いますが、いちおう記しておきました。

次の歌も同じ連作中に続けて出てくる。

 

つぼのなかにねむれるごとしこのふるさとかなしみに壺の透きとほれかし

 

「かし」は命令の文末のついて念を押したり同意を求めたりする意。

これもいいですよね。壺の外を知っていて、ふるさとを壺の中だと思うんだけど、同時に自分は壺のなかにいて、「透きとほれ」と思う。思いが響くような感じがします。

 

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