燃えながら生きている肺こころよりからだはあかるく火照りつづける

塚田 千束 「短歌研究」2021年10月号 短歌研究社

 

「すきとおる白衣」30首より。

作者は、旭川市在住の医師。医療現場にあって、患者のからだを診ている。

「燃えながら生きている」というのは、肺の活発な動きを表している。ウイルスに対する肺の必死の抵抗か。そこに感情の入り込む隙はなく、肺はひたすら働いている。

生き物のからだは、そういうふうにできている。

こころが折れそうになったり、くじけそうになったりする状況であっても、からだは命を維持するために動きつづける。そこに見る「からだの明るさ」。

「こころ」と「からだ」を並べて見るとき、とかく「こころ」の方が上位に見られがちだが、意識するしないに関わらず、「からだ」は純粋に、生きるための活動をしつづけている。

当たり前のことだが、目が開かれる思いがした。医療現場にいて、普段から生物としての人間を診ている人だからこそ、からだが「あかるく火照りつづける」のが見えているのだろう。

 

家出するように体を脱ぎ捨てて母も娘も妻も飽きたね

 

この歌の「体」は、容れ物のように捉えられている。

母親である「わたし」、娘である「わたし」、妻である「わたし」、そういう顔をもった体を脱ぎ捨てたいと言う。「母も娘も妻も飽きたね」という表現は、どことなく作者が師と仰ぐ島田修三調だと思われたけれど。

母でも娘でも妻でもない「わたし」。役割から離れたところで、ただの一人の人間になれれば、もっと自由に、もっとのびやかに息ができるのかもしれない。気がつけば、いつの間にか、いろいろな役割を負わされて雁字搦めになっていたのだった。

 

体から脱出できずひからびるやどかりみたいな少女のこころ

 

一方では、こういう歌も。

「体」と「こころ」のアンバランス。不適合を起こし、ひからびてゆく「少女のこころ」。

こちらは、こころの病を抱えた患者なのかもしれない。

医師という専門性に鍛えられた目は、人間の「からだ」と「こころ」の問題にも見通しがきくようだ。

 

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