ひろき道砂地すなぢに入りて尽きしかば濁り波よる磯あらはなる

柴生田稔『春山』

 

 

しばらく休んですみませんでした。
何事もなかったかのように、柴生田稔の歌の続きをやっていこうと思います。

前回と同じ『春山』からですが、この歌集は面白かったです。
昭和16年刊で、昭和7年からの歌が入っている最初の歌集。これは有名な佐藤佐太郎の『歩道』とほとんど同じになります(『歩道』は昭和15年刊で昭和8年~)。
二人とも「アララギ」所属で斎藤茂吉に師事している。
くわしくはわからないけど、二人ともたぶん熱い師弟関係で、茂吉は両歌集に序文を書いている。選歌もしてるはず。

 

窓越しにうすぐらく暮れてゆく空を畳にいねてわれは見てゐき  柴生田稔

 

文体も似ている。
これは二句が「うすぐらく暮れて」で8音ですが、二句がひょいひょい余るところも似てたりして、
前に佐藤佐太郎に二句余りが多いという話をしたと思うのですが、これは佐太郎の個性というよりは、当時のアララギの若手の流行りの文体だったのかもしれないですね。

マニアックな話になってくるので今日の歌へ。
詞書き(?)で、「伊良湖崎」とある。愛知県渥美半島の岬です。「砂地」はそこの砂浜のことでしょう。
「しかば」は過去の助動詞「き」の已然形「しか」+接続助詞「ば」、
「(道が)尽きると~」という意味かと思います。
「濁り波」は、土砂や海底の泥を巻き込んで濁っている波。

広い道が砂地に入って尽きると、濁った波が打ち寄せる磯があらわに見えた

わたしが面白かったのは、まず上句で、この「広き」とかとくに情報的に要らなそうな感じのことを言っていくのが好きなところです。
道が続いていて、それが砂浜に入って、そのまま歩いていくけれど、「道」という範囲ではなくなる。そういうのを「砂地に入りて尽きしかば」で言っている。
意味だけで言えば「砂浜に出ると~」だけでいいぐらいなんだけど、
広き道と砂浜の間のシームレスな感じ、歩いていく過程が大事にされている。
で、下句は一気に「濁り波寄る」にいく。
「見渡せば」とかが入らず、「道」のことから急に「波」のことへいく下句への展開は、けっこういきなり感がある。ここも海が一気に目の前に現われる感じっていうのを、伝えるところなのかと思います。

歩いていくと砂浜に出て海が見える、ということを体感的に突き詰めていって、むしろ奇妙な言い方にたどり着いているようなところが気になる歌でした。

 

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