永遠に生きるみたいな耳鳴りがきこえる それは熱心に聴く

橋爪志保『地上絵』

 

なんとなくこの歌が好きなのですが、
これは「とおざかる星」という五十首連作の最後のほうに出てくる歌で、一首前の歌、

 

草原よりも草原をゆく雲の影 僕は言葉を用意している

 

という歌と、わたしの中で二首セットになっています。
これは一首評ブログなので説明が難しいんですけど、五十首の流れの終盤でひゅっとこの二首が出てくる。その出方も含めて記憶に残っています。

なにか曲の歌詞みたいな二首だなと思う。
「草原よりも草原をゆく雲の影」。
とりあえず意味を詰めてく感じの歌じゃないと思います。
(なんとなく)草原よりも草原をゆく雲の影(だなと思った)、ぐらいの感じで受け取っている。「よりも」なんなのかはよくわからない。
しかしこの初句は7音で字余りになっていて、音韻構造的に強調される部分になる。
「よりも」はたぶん大事なワード。なので、「~よりも~」という風に心の形が決まっていく感じだけを、風があって雲が流れていく草原を浮かべながら受け取ればよいのかと思う。
「言葉を用意している」は、もともと用意してあるのでなくて、自分の言葉を形作っている最中である、みたいなニュアンスかと思いました。
「僕は」はわざわざ言われる感じの一人称で、なんだろう、主体がはっきりとした形を取って立っていく過程の、ちょっと切ないような感じが言われている一首な気がします。

それで今日の歌、「草原」の歌からテンションを続けていくと受け取りやすい気がします。
「永遠に生きるみたいな耳鳴り」、ここの「みたいな」はかなり口語っぽい「みたいな」で、「生きるみたいな」というつなげ方は今どきというか昔はなかった語法ですね。
わたしはテンション的にわかる感じがします。
「耳鳴り」からメッセージが聞こえる。気がする。「永遠に生きる」と伝えているみたいである。耳鳴りだから不調のシグナルだけれど、そうしなければいけない気がしてわたしは一生懸命聴こうとする。
一字空けの後の「それは」は何か気になります。「その耳鳴りは」なのか、あるいは「それはそれは熱心に~」というニュアンスも浮かぶ。
ここの「それは」は揺れている感じがする。たとえば「それを」という案もあるかもしれないが、それだともう少し固定した感じになってくる。
「永遠に生きるみたいな」という言い方も含めて、こう、揺れているテンションみたいなものと心は伝わる気がします。

わたしは二首セットで好きなところでした。

 

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