久我 田鶴子


カーテンを束ねる指に蔦の影どこまで知ってよいものだろう

櫻井 朋子 『ねむりたりない』 書肆侃侃房 2021年

 

窓のカーテンを端に寄せて束ねる。その指に蔦の影がさす。

朝なのだろうか。蔦の絡まるような建物の中で、蔦は外の世界のもので、その影に指は触れる。

そこまでの上の句と「どこまで知ってよいものだろう」という下の句は、直接つながってはいないのかもしれない。窓のカーテンを開けた、蔦の影が指にさした。その時にふと浮かんだ想念であったか。

それにしても、「どこまで知ってよいものだろう」とは、意味深な言葉である。

知りたいと思いながらも、世の中には知らない方がいいことがある。物事には踏み込んではいけないらしい領域がある。けれども、知りたいという思いは続いている。そこに躊躇ためらいが生まれる。

密やかな探究心と躊躇いをうちに秘め、窓辺にたたずむ人の姿。そこに蔦の影が伸びていくのが幻視されるようだ。

 

指先で曇った窓に描く舟の上にはただしく他人のふたり

 

この歌も、窓辺の歌である。

外の空気が冷えて、曇った窓ガラスに指で文字や絵を描くということはよくする。ここでは舟の絵が描かれ、その舟の上には人がふたり。

「指先で/曇った窓に/描く舟の/上にはただしく/他人のふたり」。5・7・5・7・7の韻律が、散文的に読んでしまえば冗長に流れてしまうところをうまく救っている。

特に、3句目から4句目にかけてのところ。「描く舟の」でちょっと息を継ぐように読むことで、下の句への弾みが生じる。また、4句を「上にはただしく」として、「ただしく他人のふたり」とストレートに繋がらないところも工夫されている。

舟の上のふたりは「ただしく他人」、他人であることは紛れようもない。ふたりの関係性を言いながら、こちらには躊躇いがないようだ。むしろ決然としている。

だが、本当のところはどうなんだろう。曇った窓ガラスに指先で絵を描く行為自体、感傷的な気分の成せる技であったように見えないこともない。