永田 和宏 「歌壇」2021年12月号 本阿弥書店
「陽のにほひ」20首より。
「陽溜まり」は、『広辞苑』では「日溜り」、『大辞林』では「日溜まり」と出てくる。日光のよくさして暖かい場所の意。「陽溜まり」「陽溜り」と表記されているのもよく目にする。
「陽」は、丘の日光の当たる側の意をあらわし、転じて、太陽の意に用いる。「陽溜まり」と書いた方が、日向や陽光のイメージ、さらには、温もりや匂いまでを含んだ言葉の感触があるように思う。
「陽溜まりは陽の窪みにて」と、ここでちょっと息を継ぐ。陽溜まりは陽の窪みであって、と。陽の溜まる所は、陽の溜まっている窪みなのだと言い直しているのである。
その証拠には、陽の匂いが動かない。窪みになっているから、そこに陽の匂いも溜まっている。「わたし」は屈んで、おそらくは「陽のにほひ」に鼻を寄せている。
一首の中に、「陽」が3つ、「窪み」が2つ。そして、「窪み」と響きの近い「屈み」が1つ。
陽溜まりは陽の窪みにて陽のにほひ動かぬ窪みに屈みゐるなり
言葉が編み物のように編まれて、響き合いながら陽溜まりの匂いと温もりを伝えてくる。地面に平たくなって、鼻を突き出している人の姿も見えてくるようだ。
いい大人になっても、人はそういうことをする。自己を解放できる時間をもてることの喜び。こんな時は、誰にも邪魔されたくない。
川の幅のかぎりを水はながれゆく十月の川十月の水
ゴンドラの歌は歌はず風の間に揺れてゐたりき夜のブランコ
「川の幅のかぎりを」とは、たっぷりとした水量の川であるようだ。「川」「水」、ともに2つずつ。下の句の「十月の川十月の水」のリフレインも美しい。
「ゴンドラの歌」とくれば、黒澤明監督作品「生きる」である。志村喬の、ブランコに座ってしみじみと歌う姿が浮かんでくる。だが、この歌では「ゴンドラの歌」は歌わないと言う。ブランコは、風の間に揺れていた。ブランコには乗ったのか、乗らなかったのか。志村喬に自らを重ねながら、映画のシーンを思い起こしていたことだけは確かだ。
「ゴンドラ」とカタカナで始まり、「ブランコ」とカタカナで終わる一首。その間に展開されている、映画の世界と現実の重なりとズレと。