鈴木 良明 『光陰』 短歌研究社 2021年
「やせ猫の」の「の」は、同格の格助詞。「やせ猫」と「背筋のばして坐しゐし(猫)」は、同じ猫のことを言っている。やせ猫でもって、背筋をのばして坐っていたのが、おもむろに(立ち上がって)目の前を通り過ぎていった、というのである。
作者は、その一部始終の目撃者としている。
猫の、「やをら」という動き出し方。それまで何を考えていたのか分からないが、落ち着いて事を始めようとするかのようだ。思慮深く、考えた末の行動らしく、頼もしい。
しかも、ずっと見ていたこちらのことなど眼中にないかのように、目の前を通り過ぎてゆくのである。
人間などよりはるかに賢く、世の中のことが分かっているようである。
満月がぐぐつと空より迫りきて猫の目らんらん輝きはじむ
一首の前には、こういう歌も。
「ぐぐつと」と「らんらん」が劇的な展開に引き込む分、より芝居っぽい作りになっている。
猫は、満月から何かの知らせを受けたのかもしれない。「やをら」に繋げると、天啓のようなものに自らがすべきことを察知したのか。物語は、静かに動き出している。
それにしても、人間は周りで起こっていることにどんどん鈍感になっているような気がする。大いなるものが語りかけてくるものをキャッチする力も、はるか先を思いながら〈今〉なすべきことを考える力も失っているとしたら、それは人類の退化ではないのか。
「核のゴミ十万年を管理する」手に負へないつてことではないの?
あかねさすニュータウンの街角に〈通報する街〉〈見てる街〉の標語
海外の悪しきニュースを流してはわが国内の悪を庇へり
光、風、小鳥のさへづり身に沁みて原初生命体のわたくし
「原初生命体」にまで戻って、人類はやり直さなければならないのかもしれない。そんな「やり直し」って、はたしてできるのか?