<おかえり>がすき 待たされて金色のとおい即位に目をつむるのさ

井上法子『永遠でないほうの火』

 

この歌は前から好きです。

おかえり。
おかえりと言うのが好き。言われるのが好き。帰っていけるところがあるのが好き。誰かが帰ってくることが好き。
いろいろあるけど、そういうことを全部含みこみつつ、でもワンエピソードに落ちるんじゃなくて、「おかえり」自体が好き。
<おかえり>っていうことが好き。

山括弧が出てくる歌、それほどありませんが、わたしなりに受け取るとそんな感じになりました。
山括弧的な感覚ってでもありますよね。わたしはマック(マクドナルド)が好きなのではなく、<マック>が好きなのだ。みたいに思うことがある。

読解を詰めてくのがいい感じでもない気がしますが、ブログなのでやっていくとすると、
一字空け以下は<おかえり>のことを「即位」という比喩によって言い直しているという感じかと思います。

「待たされて」は<おかえり>を引っ張りつつ、「即位」も待って成ったりするものだから、直接的には待たされた即位として「即位」にかかるのかと思う。その二つをつないでいる。

「金色のとおい即位」は「おかえり」の日常感からずっと遠くにあるもので、
だから、とても飛距離のある比喩である。
でもよくわかると思う。<おかえり>は金の冠をかぶせてもらうような、目つむってしかるべき特等の栄誉と幸福である。

こんな感じで読みました(歌集では実はもっと連作の流れがあるのですが、一首で読ませてもらっています)。
文体、山括弧があったり比喩もなだらかなものではないので、観念性が強い感じもありつつ、とても柔らかいフォルムになっているのが印象的です。

わたしからすると、日常的な親密さってすごく大事なもので、それは金色の冠をかぶせてもらうような特別さと等価であるっていうのは、それ自体一つの読み方なわけですけど、とてもわかる感じがする。
なんでもないことが大事というような話でもなくて、山括弧が付くようなメタレベルからそれを思うということが。

 

 

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