最上川逆白波さかしらなみのたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも Part2

斎藤茂吉『白き山』

 

前回から続き。
この最上川の歌は、「逆白波」がいいとか悪いという話になることは多い。単純に目立つポイントである。

 

「逆白波」という造語がいいが、一首の味わいは、この語によって簡潔のうちに豊富になっている。流れにさからって立つ波を逆波というのは普通のことだが、作者にすでに「東風ひがしかぜふきつのりつつ今日けふ一日ひとひ最上川に白き逆浪さかなみたつも」という歌がある。また、杜甫に「逆素浪」という語がある。そういうものをすべて忘れて想起することなく、ただひたすら写生して、「逆白波」と造語したのである。表現は力をそそぐことによって争われない新鮮が付着する。(『茂吉秀歌』佐藤佐太郎)

 

佐藤佐太郎はけっこうごちゃごちゃ言っていますが、ここからうかがれることは、「逆白波」の造語の独創性がすごいんだ、いや過去に用例があるぞっていう論争みたいなことを既に踏まえて意識していて、揚げ足を取られないように過去例をむしろ先に出しながら、「そういうものをすべて忘れて想起することなく」茂吉はこの語をつかんだんだと言っている。

翻訳すると「過去例があったとかなかったとかにこだわるのは小っちゃくね? 表現のダイナミックな一回性ってそういうもんじゃなくね?」というようなことを言っている。

ちなみに「逆白波」に関して塚本邦雄さんの意見はこちら。

 

先例の近似は、中村憲吉『軽雷集』大正十年作「さかさしら波」を挙げる例もあるが、「アララギ」系以外でも、偶然の用例はあらうし、格別独創を誇つて、専用語風に言ひ立てる要はさらにあるまい。要は、この準造語が、一首の中でいかに生かされたかにある。第三句以下すべて平仮名の第二句に、この語は象嵌された感があり、最高にその効果を見せたと賞してもよからう。初句名詞切れも亦快い。(塚本邦雄『茂吉秀歌 「霜」「小園」「白き山」「つきかげ」百首』)

 

これは面白い意見だと思います。「象嵌(ぞうがん)」とは工芸の技法で、一つの素材に異質の素材をはめ込むこと。すべて平仮名の素材の頭に埋め込まれた漢字として「逆白波」あるいは「最上川」は最高に生きているとのこと。

なるほどですよね。斎藤茂吉はたぶん文字より音のほうが強い印象があるし、狙ってこうしているのかはちょっとわかりませんが、結果的にはそうした文字のオブジェのようにも見えてくる。

 

全体的なところでいうと、三人の意見を引用してみましたが、三者に共通するのは、この歌のスタイルに関する言及が目立つこと。「万葉調」というのがその語になりますが。

前回の玉城さんは「無内容なところを、形式の力で誤間化したような感じがする。」と言っている。
これはそんな気もするんですけど、いろいろ見ていると、この歌ってけっこう、無内容だからこそ文体・形式・スタイルの範例みたいにして立ち上がっていると思うんですよね。

文体とは抽象モデルである。
多くの具体があって、あるときそこから抽象モデルが立ち上がる。その抽象モデル自体をあらわすには、透明な水が流れていないといけない。つまり「内容」がとぼしいものがむしろ範例としてふさわしくなってくる。
この歌まわりを見ていて、そういう奇妙な力学を感じる気がしました。
玉城さんは、そういうのは空疎でだめだって言ってるんだと思うんですけどね。

前回引用した『茂吉の方法』は名著で、茂吉の読み方かわるし、何がいいのかについて教わることの多い本でした。
玉城さんが良しとする同じく『白き山』の最上川の歌はこれ。

 

最上川の支流は山にうちひびきゆふぐれむとする時にわが居つ

 

この作者の地形観の良いことは、前にも述べた。これなども、山裾を急流をなして流れてくる支流のさまが、いかにも無理なく、とらえられている。こういう点は、他の作者に見ることのできぬ美所である。

それから「・・・・・・うちひびきゆふぐれむとする時に」という続き具合が、なかなかに面白い。自分が、ここに来る前から川のひびきは聞こえており、自分が去った後も、それは続いている。その間断のない継続の感じが、言外に(というのは、言語組織の中にということだが)よくあらわれているのである。

そういう「時」に、自分は、ここに来て腰を下ろした。

(玉城徹『茂吉の方法』)

 

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