永井 祐 『広い世界と2や8や7』 左右社 2020年
「仕事にいく途中に柿の木があって実がなっている」と、4句目までは実にたんたんと通勤途上の景を描写しているように見える。頷きながら読んでいると、結句に来て「いつ見たときも」である。いつ見たときも、ってどういうこと? ありえないでしょ。
柿の木は落葉樹だ。冬の間すっかり葉を落としていたのが春になって芽吹き、若葉から青葉になる頃に目立たない花を咲かせ、やがて青い実をつける。その実が秋になると色づいて食べ頃を迎え、そしてまた葉が落ちて裸木になる。柿の木は、そうしたサイクルの中で生きている。
それにもかかわらず、「いつ見たときも実がなっている」とはどういうことか。
うーん、と考えた末の答えは、柿の実がなっていると気づいたとき以外は、たとえ見えていても見てはいないということだ。おそらく柿の実が色づいて初めて、通勤途上に柿の木があったことに意識がいく。それ以外の時期には、気にすることもなく素通り。脇目も振らず仕事場に向かっているというわけではないにしても、だいたいは何か目を引くようなことがあってようやく意識の中に入ってくるものだ。出来事としては、ごく普通のこと。そんなに不思議なことではないが、意識化の仕組みにハッとさせられる。
「仕事にいく」という、この表現にも注目した。
仕事してするどくなった感覚をレールの線に合わせてのばす
五月の夜にあいていたのはマックだけ ポテトを食べながら仕事する
仕事の具体は分からない。その仕事をしていると、感覚がするどくなっていくこと。夜間にまで及ぶこともある仕事だが、マクドナルドでポテトを食べながらでもやろうと思えばできること。歌から見えてくるのはそれくらいだ。
とにかく忙しそうだ。しかし、具体的な情報を盛り込まず、「仕事」としか表現しないところに、作者の仕事に対するスタンスを感じる。
きっとこのまま年を越すけどエアコンの風に吹かれて歯をみがいてる
大晦日はまだ半日も残っていて英語の辞書をながめてすごす
永井さん、2021年の大晦日はいかにお過ごしですか?
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1年間、ありがとうございました。
まるまるコロナ禍の中にあった2021年という年に一首鑑賞を書き続けたことは、貴重な経験となりました。
取り上げた作品は、2019年から2021年の間に発行された歌集、及び雑誌等に発表されたものです。2019年はまだコロナ禍の影響がありませんでしたが、2020年の途中からはその影響下にあります。
作品の読みについてもコロナ禍とまったく切り離しては成立していないだろうと思います。しかし、それもまた2021年という年にさせていただいた証しということでしょう。
一首鑑賞を通じて、156名の方々の作品に触れることができました。こんなに歌集を読んだ年は今までなかったように思います。ほとんど家の中に引き籠もっていた1年でしたが、いつになくたくさんの出会いのあった年になりました。こういう機会に恵まれたことに感謝しています。