たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり

河野裕子『桜森』蒼土舎,1981

 

週末、研究との兼ね合いで近江のほうへ。

いくつもの山を、川を越えて、ふと視界がひらけると、そこに琵琶湖が現れた。

 

わたしは生まれ育ちが太平洋に面した、海から1キロほどの港町で、子どもの頃から水べに近しい。けれど、湖の佇まいは、海のそれと全く違った。

周囲は静かにしずかに山やまがそびえ、向こう側にもうっすらと稜線が見える。はっきりとはうつらない。潮騒のような水音は、湖からは少しも聴こえてこない。カモメもおらずウミネコも騒がず、鳶が悠々と飛んでいる。

わたしがそこを訪れていちばん驚いたのはその静けさで、水音も水面も、海の波とは本当に異質だった。

波の打ち寄せる岸辺こそ、穏やかな海のそれと似ているけれど、戯れに水を舐めてみると何の味もしない。それも衝撃だった。

この歌の異様な気配は、「たつぷりと真水を抱きて」のこの「真水」にこそ宿るのだと身をもって感じた。この無味の、無音の、透きとおった静けさの巨大な「器」。

言うまでもなく「しづもれる」には「静もれる」と「鎮れる」の両方の意味があてられていて、後者のそれは、「近江」の抱える数多の歴史的な文脈、そして背景を抱え込み、なおかつ沈黙させる。

だからこそこの歌の中で、近江は永久に「くら」く淡く佇むのだろうと思う、なにより、夜の海は存外明るいのだ、漁り火や対岸の赤いランプ、船のそれ、目が慣れるとほの明るい水平線。

近江の夜は、山々の気配がしんと聳え、それらが「たつぷりと真水を抱」いた湖をおさめているような、不思議な昏さをたたえていた。

自らの経験を通して歌そのものがぐっと鮮やかに現前するのは、とっても愉快、と感じた出来事として。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です