井上法子『永遠でないほうの火』(書肆侃侃房、2016年)
ひとつまえに〈きみには言葉が降ってくるのか、と問う指が、せかいが雪を降りつもらせて〉といううたがあって、だからここで「降りては来ない」もの、そして「あふれる」ものとして、「言葉」をおもった。
降りては来ない/あふれるのよ//遠いはかない/まなざしからきっとここへ
というふうに七・六(上の句)//七・十二(下の句)として読んだ。言葉が(あるいは「詩」が「短歌」が)降りてくる、という言い方がある。それはときに、天から突然降ってきてたまたまあなたが受け取っただけ——というある蔑みを含むことがある。あるいは理解できないものへ、さしあたり距離をとるためのことばとして。
しかしうたは、そうではないのだという。あふれる、というと器からあふれる、器をあふれる、というようにそれはたとえばわたしや、わたしという体や心のような、今ここにあふれる、というものを想像する。しかしここでは「遠いはかないまなざしから」「ここへ」という遠い遠いある一点から、ここというこれも一点にむけて「あふれる」という、特異な(いくぶん数学的な)接続がある。
だから「言葉があふれる」というときの、それは「言葉が降りてくる」というときのとほぼ同義の「あふれる」とは、ちがう「あふれる」がここにはある。「遠いはかないまなざし」がそれでもかすかに保たれながら、ついにあふれてここへ至る。そのひといきにして永い永い道程をおもう。
ことばにはならなかったあのときの、あるいはことばにすることを許されなかった、そのときはまだことばにするようなこととは予感されなかった、たくさんの「まなざし」が、いまなお、無数に遠く遠くわたしを見つめている。