木犀が匂ひますねといひたれば思ひ出があるのですねといたはられたり

馬場あき子『渾沌の鬱』(砂子屋書房、2016年)

 

秋のおとずれを、その花の香りで伝える樹木としてキンモクセイは知られている。たんに「木犀」と言った場合には、キンモクセイほどは匂わないという、ギンモクセイのほうを指すことが多いようだが、いずれにしても、あの花の独特の香りを感じとって、「木犀が匂ひますね」と言ったわけである。

 

そこには「今年も木犀の季節になりましたね」「秋が来ましたね」、あるいは「今日はことにも木犀が匂いますね」という、ささやかな、挨拶のこころがあったのだとおもう。ところが相手にはそれがうまく伝わらなかった。「木犀が匂」うことに、ことさらな意味を見出そうとして、「思ひ出があるのですね」という返答になったのだ。

 

わたしもこの木犀の花を知ったのは、ここ数年のことで、今なら自然にこたえられたであろうが、知らないときであれば、やはりこうしておもんぱかるようなことばを考えたであろう。あるいは「そうですね」とだけみじかくこたえて、その場を凌いだかもしれない。

 

「木犀が匂ひますね」と言われて、どうにかそれを今ここで自分に発した意図を想像し、木犀という(あまり知られているとはおもわれない)樹木におもい入れがあるということは、そこにまつわる何か個人的な思い出があるのだろうと推察した。そうしてでてきた「思ひ出があるのですね」ということばであるが、その出自とは裏腹に、存外慎ましく奥行きのあるこころを映し出す。

 

だからこの「いたはられたり」には、すれちがいを残念におもう気持ちがありながらも、そのこころづかいをいくぶん嬉しくおもう微妙なこころがあるようだ。そしてうたは、このすれちがいが、しかしかえってこの場面を印象深いものにしている。

 

つづくうたに、

 

木犀は幸ひふかき片思ひ匂へる秋をしみじみとかぐ

 

という一首がある。あるいはこの労りのことばをむけたひとは、ギンモクセイの花言葉「初恋」を知っていたのかもしれない。「思ひ出」とはすなわち、むかしの恋のことであっただろうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です