手を放すたびに思うよこの街で花束になる花のすべてを

櫻井朋子『ねむりたりない』書肆侃侃房,2021.10

 

前回の前田夕暮につづき、今回も「手」と孤独の歌を。

夕暮の一首と比べてこの歌の場合は、わかりよく「手を放す」ことを選んでいます。

 

上の句「手を放すたびに思うよ」では、作中の主体はすでに、あるいは現在進行形で何かを手放している。

その「何か」が何であるかは明言されておらず、つづく下の句「この街で花束になる花のすべてを」では、おそらく「思うよ」の中身について言及されています。

 

作中の主体は何かから「手を放す」、そのうえ「たびに」とあるので、幾たびもそれを繰り返している。けれどその都度、語り手は「思う」だけ。

 

実のところ、何も手にしていないこの歌の〈私〉のまなうらには、しかしながら「花束」になる前のたくさんの、そして個性ある一輪の花々がところせましと押し寄せて、

語り手による「思うよ」という呼びかけによって、その景色をわたしたちにも分け与えてくれるよう。

 

そう、ここでわたしたちは、語り手の差し出した光景を受け取ることで、両手をひろげ、花々を咲かせるような〈私〉のすがたも錯覚するのです。

 

「手を放」しているはずなのに、すべてを包み込んでいる。

あたたかい魔法のような一首です。

 

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