族なるをみな三人海のぞむホテルにこころを曝して語る

矢野悌子『沢瀉』(文學の森、2021年)

 

「女の族」という一連の、末尾の一首である。族は「うから」。みうち、親族のことである。一連には、叔母、母、我、娘、姉と、題のとおり「女」ばかりがうたわれる。この「三人」、わたしを含む三人だろうが、具体的にどの三人かというところまでは、確定しない。

 

族なるをみな三人/海のぞむホテルにこころを曝して語る

 

と二句切れで読んだ。「海のぞむ」の「う」の音が、「族」の「う」とひびきあい、ふたたびうたを立ち上げる。

 

いずれにしても、「をみな」ばかり、「族」ばかりが三人あつまって、だからこその話がある。「海のぞむホテル」がどこか心を開放するようで、それに促されるようにして話は尽きず、「語」りはやまぬ。

 

一連冒頭に「叔母逝きて」とあるので、その法事まわりの場面かもしれない。あるいはその後につづく回想のうたを読めば、今日のこの一首の場面も、ひとつの回想のようにも読める。吉田秋生『海街diary』の光景がふとおもわれてくる。

 

一首は、「曝す」の一語、曝露の「曝」にこころがかよう。誰かに見せびらかすというよりも、ここでだから話せることを、しみじみとぶちまけるようなところがある。そしてそれを、眼前の大きなる海が受けとめ、薄めてくれるようでもある。俵万智『サラダ記念日』(河出書房新社、1987年)に

 

今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海

 

という一首があった。ここでだから話せること、今だから話せること、あなたにだから話せることが誰にでもある。このひとときを尊くおもう。

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