木下龍也『オールアラウンドユー』(ナナロク社、2022年)
金木犀は都会にもある。けれども、地元(田舎)から届いたその「写メ」を見ると、なんだか無性に帰りたくなるよ、といううた。
都会にも/あるけど帰り/たくなるよ/金木犀が/写メで届いて
語順の妙というか、まず「けど」「帰りたくなる」という、矛盾するような感情がさしだされ、それからその詳しいところが下の句で述べられる。お、とおもいながら続きを読むことになる。
そうして一首は、あの「なんだか無性に」の感覚をおもいおこさせる。
むろん、金木犀を見に帰るわけではないだろう。ああ、この感じ、この場所、そこに過ごした時間が、「都会」にいて、それらから離れてみると、不意に、しかししみじみと、なつかしくおもわれるのだ。
ここで自分のいま暮らすところを「都会」と認識する感じや、この写真が「写メ」(写メール、写真つきのメール)つまり携帯電話のふるい機能によって届く感じそのものに、そもそも、ある種の「古さ」がまつわることに注目する。
若山牧水『路上』(博信堂、1911年)に
かたはらに秋ぐさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな
という一首があるが、今日の一首にこもる感情そのものもまた、すでになつかしいもののように、おもわれてくるのだった。
鑑賞者のわたしの背後には、いま、いきものがかりの「帰りたくなったよ」という曲が流れている。しかしここで、「帰りたくなるよ」という現在形は、一人のわたしを離れて、普遍的なところへとどこうとしている。「なつかしい」という気持ちになることそのものへの「なつかしさ」が、ここには漂っているようにおもう。