帷子つらね「シャドーロール」『女性とジェンダーと短歌』短歌研究社,2022.1
言ってしまった、思わず発してしまった、と、息をのむ一瞬。
たいていの場合それは、言わなくてもよいことなのに。寧ろ、言わないほうが良いことなのに。
にんげんと言語を介したコミュニケーションを試みるうちの、ありとあらゆる場面で、
その発話の主体が自分以外の他者である場合も含めて、いったいどのくらいこのいっときと接してきただろう。
この歌を読んで、ふとそんなことを思い出しました。
上の句、「カーテンが僅かな凪を抱きこんで」。
「カーテン」が何かを抱いている、というと、わたしたちのやさしく思い浮かべるのは、おそらくカーテンが風を抱いてふわりと膨らんでいる光景。
けれどこの歌の世界では、「カーテン」が「凪」を「抱きこんで」いる。そのうえただの「凪」ではなく、「僅かな」。
さきのふわりと膨らんでいるカーテンの景から、ほんのすこしあと、風が止んでししゅっと形の締まるいっときを想像します。
そうして「止まる」という言葉そのものに突き当たるこのとき、読み手であるわたしたちも一瞬、息を止めるのです。
驚くのは「止まる」ののちの一字空けの効用。
まるで映画のワンカットのように、あるいはわたしたち自身が「凪」として「カーテン」にきつく包みこまれるように、ホワイトアウトする歌の景色。
そして淡々としたナレーションのごとく、語り手は「発語はなべて落城」とひといきに、
みずからの役割に影を落とすような発語とともに、この一首の世界は綴じられるのです。
冒頭で述べた「息をのむ一瞬」を景で表しながら、そのすぐあとにやってくる絶望と、自分の中の何かが崩れ落ちてしまう様子を、「落城」という単語で拾ってみせたことの巧みさ。
わたしにもこころに帝国があって、それを守るために、護りぬくために、ものを書いているのかもしれない、と思うときがある。
この歌においても、「発語」した、あるいはそれを向けられた〈私〉から「落城」へと至るまでの、その熱く揺るぎない世界への視点こそが、譲れない領分としてこころのうちに在ることを信じさせます。こころづよい一首です。