スーパーの2階で安くなっていく花火を昨日みて今日もみる

岡野大嗣『音楽』(ナナロク社、2021年)

 

夏のあいだ売られていた花火が、もうそんな時期でもないということで、スーパーの棚からしだいに消えていく。1階にどん、と並んでいた花火の姿はすでになく、2階に残って、あるいは移されて、終わりのときを待つひとかたまりがあるばかりだ。

 

「2階で」の「で」には、そういう、花火の頃あったところとは違う場所「で」、あるいは、売れ残ったものだけが寄せ集められてその場所「で」、といったニュアンスがこもる。時期を過ぎた花火が、「安くなっていく」場所として「2階」があるのだ。

 

ここで「安くなっている」ではなく「安くなっていく」であるところにも、注目する。

 

昨日きたときにみた「花火」が、今日きてみるとまた(更に)安くなっている、ということだろうか。しかし刺身や惣菜ではないのだから、まず20%引きになって、それが閉店時間近く50%引きになって、とそういう感じではない。そうおもうとき、この「なっていく」の含みもつ時間は存外長い。

 

たとえば昨日今日のことではなく、「ここから安くなっていく」その大きな流れのなかに、わたしの眼差しはあるようだ。毎年のことでなんとなく知っていて、ああこれから安くなっていくなあ、ああ本当に夏が終わっちゃうんだなあ、とおもう。

 

昨日みて、今日もみて、安くなった花火を、しかし買いはしないのである。二度くりかえす「みて」「みる」には、みる「だけ」、という気分がこもる。そうして多くのひとが買わないまま、安くなって安くなって、花火はいつしか店頭から消えるのである。

 

花火への同情は少なからずありながら、しかしそれをただはたからみているだけのこの視線は、ありふれていながらどこか冷酷でもある。ありふれているから冷酷なのかもしれない。

 

夏を惜しむこころ、それが少しずつ花火へ引き寄せられていくこまやかな変化に共感しつつ、一方でその「惜しむ」というこころの向かいかたの、あるつめたい一面を見るようにして読んだ一首である。

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