染野太朗「反転術式」『外出』八号,2022.11
「責めるとか許すとか」と、能動的な選択肢の提示から語り始める語り手。
「いふのもちがふ」の字面のたどたどしさから、下の句に至っては一字空けをはさみながら「馬肥ゆる秋」、「だから忘れず」と、語り手はつぶやきを連呼するのみ。
「馬肥ゆる秋」という慣用句は、秋は空が澄み気候が良いため食欲が増し、馬が肥える……という意味ですが、
先に語り手によって示された「責めるとか許すとか」を選択肢のうちに抱えていた、
この歌の〈私〉のこころうちはまったく「空が澄み気候が良い」のかかる様子では、ないのでは……と、わたしたちはやや混乱します。
馬は代々、(…代々?)、にんげんの心の奥深くに触れてくる生き物として歌の世界でたびたび登場しています。
わたしは思わず、「馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで」を思い出してしまう。
歌のなかの世界にだけ存在している倫理や法則というのは、どの歌にも必ずあって、
順接が純粋な接続でなかったり、逆説が反語のような貌をしたりすることがある。
寧ろ、ここでは空の高く空気の澄んでいるゆえに、「責めるとか許す」の対象である何かを、その情念を、よりはっきりと心に映しているよう。
うんと澄んでいる、それゆえに冴えわたる情念の一首ととりました。