夜の時間を味方につけて書いてゆくエッセイのなか祖母が来ている

吉川宏志『海雨』砂子屋書房,2005年

 

夜は大事な時間だなと思う。
日中に働いていると、ものを書くのは夜になることが多い。原稿を書き上げなければならないのに、酒を飲んだり、ボーっとTwitterを眺めたりしてしまうし、油断をすると寝てしまう。「夜の時間を味方につけて」という表現には感覚的に納得感がある。
「夜の時間を」というたっぷりとした初句七音からは、夜の時間の膨張したような長さを感じる。忙しない日中と夜では時間の流れが変わるし、寝る時間を遅くすれば夜を引き延ばすこともできる。そんな夜の時間を主体は味方につける。原稿の進みが順調そうだなあなどと思っていると、結句で祖母があらわれる。

 

死に終えて祖母はねむれりあおあおと輪郭のみを泛かべいる山 『夜光』砂子屋書房,2000年
雨降れば雨のに立つ花あざみ祖母の死後濃くなりしふるさと 『海雨』

 

祖母が亡くなった際のことを描いた連作は前歌集の『夜光』の巻末付近に収められている。『海雨』においても、掲出歌の配された連作のひとつ前の連作に祖母のことが詠み込まれたこの一首が配されている。
書いているエッセイに祖母が登場したのだろうか。〈祖母を描けり〉のように、主体の動作として一首を書き切ることもできただだろうが、「来ている」という語の選択によって、祖母が祖母の意志を持って散文にあらわれたような印象を生む。もしかしたら、細かなテーマを決めずに書きはじめて、書いている中で祖母の話がエッセイに組み込まれたのかも知れない。
祖母の登場によって「味方」という語にふくらみが生まれる。頭から読んでいけば夜の時間を擬人化して「味方」と表現されているのみだが、主体にとっては「祖母」も「味方」だろう。主体にとって大切なひとであり、このエッセイの完成に寄与してくれてもいる。また、主体の背後には祖母が立っているような印象さえ受けるのだけれど、亡くなった方が来ているのに怖い印象が無いのも「味方」という措辞の効能だろう。
「祖母」が来るのに一番合う時間はやはり夜だ。
夜に原稿を書く。そんななんでもない時間が特別なもののように切り取られ、印象に残る。

 

天皇が宮崎生まれのわけがえ。夕闇畑ゆうやみばたに祖母は言いたる  『海雨』

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