カーナビは瞬時にわが位置示すゆえ狙撃兵の眼天より感ず

小山美保子『灯台守になりたかったよ』青磁社,2020年

 

カーナビに導かれながら車の運転をする。自分の位置は画面上の中心部にあり続け、画面をスクロールしてもボタンひとつで自分の位置を確認できる。至極便利なんだけど、ときどきなにか現実の出来事では無いような気がする。テレビゲームの中に迷い込んだような非現実感。カーナビの仕組みを少し調べてみても、ちゃんと理解できた気はしない。
カーナビの機能は人工衛星の功徳なのだろうけど、作者はそこに「狙撃兵の眼」を感じる。確かに、自分の位置がシステムによって割り出されている状況は、第三者に正確な位置を知られる可能性を含むし、何よりも人工衛星によって位置情報を割り出される仕組みは、実際に人工衛星がこちらを見ているわけではないにしても、天からの視線を感じる。
「狙撃兵」と「天」に微妙な距離がある。「天」からの視線といった時に感じるのは、たとえば神のような、人よりもある種上位に位置する存在のような気がする。「狙撃兵」は形而下にあって、人間そのもの、または人間に近い印象だ。
それでも、「狙撃兵」には日常的なリアリティがあるかといえばあまりない。いまこの時点の日本社会で暮らす中で、リアリティが消失している語だろう。
〈狙撃手〉ではなく「狙撃兵」とされることで、主体が感じている視線は形而下のものに感じられる。〈狙撃手〉であれば、神の眷属である可能性が少し増すように思う。あくまでも人間の眼を、主体は感じている。
カーナビは人間の発明だ。だからこそ、そのシステムによって殺傷がなされるとしたら、人間によってだろう。狙撃兵が天から撃ってくることは無いにしろ、衛星航法によるミサイル誘導によって人間が人間に殺傷されることは、ある。そこには若干の非現実性を感じてしまうのだけれど、この一首を読んでいると、この一首の内容が現実にかわるまで、必ずしもそこまでの距離が無いような気がしてきて、恐ろしさをおぼえる。

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