生まれ変はつてもサラリーマンであるやうな冬空の下にバスを待ちをり

田村元『昼の月』いりの舎,2021年

 

冬、バス停でバスを待っている。描写としてはそれだけなんだけれど、一首の主眼は上句を目一杯使った比喩だろう。
上句の比喩はあくまでも「冬空」にかかっている。ただ、この比喩によって「冬空」の解像度が上がるわけではなくて、どちらかと言えば、「生まれ変はつてもサラリーマンであるやうな」という比喩部分のリアリティが下句によって補強されるような印象がある。一首において、バスを待っている人間が確かに存在している。そして、比喩そのものがバスを待つ主体の感慨として響く。
通勤にせよ勤務中の移動にせよ、「サラリーマン」と「バス」は近い語のような気がする。また、バスを待っている手持ち無沙汰な時間は、上句の感慨を導き出してしまいそうだ。その思考の成立に対して「冬空」は小さくない影響を与えているのかも知れない。

 

サラリーマン向きではないと思ひをりみーんな思ひをり赤い月見て  『北二十二条西七丁目』
島耕作にも坂の上の雲にも馴染めざる月給取りに一つ茶柱
われはいま水族館へ行くのだと暗示をかけて職場へ向かふ
月曜の職場に出て少しづつ職場での〈われ〉を思ひ出しゆく     『昼の月』
同期ともがみなわれより偉くなりてゆく夢より覚めて洟かみてをり
栄転をする人のため飲む酒も酔へば十中八九楽しき

 

前歌集から一貫して詠まれている労働の歌。酒の歌と並んで、歌集の中で大きな割合を占める。サラリーマンの悲哀というと陳腐になってしまうけれど、労働の持つ虚しさや労働者の組織の歯車としての無力さが滲んでいて、共感してしまう。働きたいわけでは無いが、働く以外に生きる方法がわからない、そんな閉塞感を感じる。
作者の労働の歌を振り返りながら、掲出歌の「冬空」はどんな様子だったのかなと、あらためて思う。冬の空というと、大気が澄んで雲の無い青空も、今にも雪が降りはじめそうな鈍色の曇天もありうる気がする。サラリーマンに対するネガティブな印象に引きずられると鈍色に傾くのだけれど、もしかしたらこれは、すこんと晴れた冬晴れの空なのかも知れないなと、ちょっとだけ思う。
労働との距離は生きていく中で少しずつ変わってゆく。自分は〈サラリーマン向きではない〉と明確に思っていた主体、時間を経てサラリーマン向きだと思うようになったわけではないだろうが、もしかしたら多少の変化はあるのかも知れない。

諦念と受容が少しだけ明るい光を放つことはある。しかし、その光は絶えず放たれるわけではない。一首の解釈としてはズルに近いけど、この冬空は曇天であり、そしてときには青空でもある、そんな風に思うのだ。

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