樋口 智子『幾つかは星』(本阿弥書店 2020年)
この「人」は幼い人だろう。
今、抱いている感情を「さびしい」と呼ぶことを知らず、自分が知っているうちで、最も近い感覚である「さむい」を訴える。
実際、寒いと何か寂しい。その結びつきは気のせいではなく、脳内物質の分泌などとも関わっていて、科学的な根拠があるらしい。そこを幼い人は鋭敏に感じ取っている。そして、しがみつく、温もりを求めて。
言葉の上でも、「さびしい」「さむい」は同源である。
「さびる(錆びる、寂びる、荒びる)」、つまり、生き生きしたものが失われ、荒涼となると、からだには寒く、心では寂しく感じられる。表裏一体なのだ。
とは言え、「さむい」は「さびしい」より早く獲得されねばならない言葉なのかもしれない。なぜなら、生存に直結する、より生理的な言葉であるから。そして、今、この「人」は、その第一次的な言葉から、より高次の抽象的な言語の理解へと向かう、そのはざまにいるのだろう。
その過程は、神秘的で興味深い。
「子」ではなく、「人」という言い方には、そんな獲得の途上にいる存在への尊重がある。自分とは切り離された別存在の「人」である。
その「人」をわたしは抱きしめるのだろう。さむさとさびしさを同時に、くるむのだろう。
新しい言葉を知るのは喜ばしいことだ。
けれど。
いつか必ず「さびしい」を知らねばならないにんげんとは。 少しくさびしい。