魚村 晋太郎


会えなくていいような気になりかけて春の枯れ葉にさし入れる足

小林久美子『恋愛譜』(2002年)

春の枯れ葉を詠んだ歌はめずらしい、と思うが、俳句にはすこしニュアンスの似た季語に、古草、というのがある。若草にまじって残っている、前の年の草のことをさす春の季語だ。
古い、と、新しい、は対の概念なので、俳句の世界では例えば、古年は新年の季語、古酒は新酒が出回る秋の季語になる。

会えなくていい、というのはこの一首の場合、相手に対して幻滅した、とか、気持ちがさめてきた、ということではたぶんない。
会えない日日があまり長くつづいたり、こころが疲れていたりすると、さびしい、ということさえ実感することができなくなるほど、虚ろな気持ちになることがある。
恋人同士になるかならないかの淡い関係にあるふたりなのか。長いつきあいであっても、はっきり恋人といえないような、微妙な関係なのか。
いづれにしても、主人公の気持ち次第では消えてしまいそうな、心細い関係である。

季節は春。木木は芽吹いて、景色は生気を取り戻してゆく。
そんな景色をぼんやりながめていると、会えない相手を思い切って、自分も新しい季節へ足をふみだせそうな気がしてくる。
でも。と主人公は立ち止まり、春の枯れ草に足をさし入れる。
かさかさとくずれる冬の名残の葉をふんで、自分自身のさびしさをたしかめるように。

恋は終わる。どこでどう終わりにするかは人それぞれだが、いまの主人公にとって、会えないことを受け入れてしまうのは、会えないことよりも、ずっとせつないことなのだ。
なりかけて、という表現には、消えそうな恋をいつくしむ主人公の思いが表れている。