不良なら新潮文庫の上辺よりもっと激しく不揃いでいろ

千葉聡『そこにある光と傷と忘れもの』
(風媒社、2003

つまり自称不良に対して、もっとはちゃめちゃな、本物の不良になれと諭している歌なのであるが、そのときの喩えに「新潮文庫の上辺」が持ち出されるあたりで、ちょっと可笑しい。このアドバイスによって誕生するのは本好きの不良なのである。あの小さな本を持ち歩きながら、新潮文庫はやっぱりココがいいですよね、なんて指でなぞりながら言う不良……。そして、「新潮文庫の上辺」より「不揃いでいろ」といわれて、ああ、あれのこと、とわかって●●●●しまった私たちもせいぜい本好きの不良にしかなれそうにない。

「わかる」ということが、この歌のポイントだと思う。わかる人とわからない人のふりわけに、「新潮文庫の上辺」が使われているのである。わかる歌とわからない歌があれば、誰しもわかる歌の方を「いい歌」だと感じる。たとえば歌会に出されたある一首に古典文学の登場人物の名がある。その手の教養がなければ「わからない」歌だが、たまたま自分には「わかった」。すると、ついその歌に点を入れたくなってしまう。そういう経験は多くの人にあるだろうし、私にもある。歌会の投票でも、「今年の収穫」のようなアンケートでも、あるいは新人賞の選考でも、歌の評価というのは案外その種のバイアスから自由になれないまま行われているものである。

今日の一首に、そういう“バイアス”のはたらく箇所があるとすれば、「新潮文庫の上辺」なのである。しかし引かれているのは文学作品の中身ではなく、あくまで本の装幀。新潮文庫の、あの不揃いな上辺のことは少しくらい本が好きな人であれば皆知っているし、何冊かは書棚に持っている。つまりこの一首は、読書家たちの間に「わからなかった」人をほとんど生まない。短歌という形式が生み出す評価のバイアスを最大限に利用し、それでいて鼻につく感じ(スノッブな感じ)もない。うまい、と思うし、ちょっとずるい、とも思う。一方で、この非常にハードルの低い「わかる」を共有するコミュニティーの外側に飛び出し、本物の不良になるのは私たちにはとても難しい。

この歌を収めた『そこにある光と傷と忘れもの』は、2003年に出た千葉の第二歌集。それに先立つ第一歌集『微熱体』(短歌研究社、2000)は、短歌で書かれた青春短編小説集といった趣の一冊だった。

リンの手に〈火に寄る蝶〉のタトゥーあり 皿を拭く手は羽撃はばたくリズム
その髪を老いた男にいじらせて少女は波を聴いたのだろう
コンビニまでペンだこのある者同士へん●●つくり●●●になって歩いた
「漫画家になれますように」「小説が書けますように」初詣ブルー

リゾートバイトで出会ったリンという少女との恋のいきさつと彼女の抱えていた過去(「虹飼ホテルにて」/引用一・二首目)、漫画家志望の恋人ととともに過ごしながら挫折の瞬間を見届けた小説家志望の主人公(「漫画家志望 作家志望」/三・四首目)。そのほか、一冊の歌集にあまりにも多くの恋愛や恋愛未満の物語が詰め込まれているから、読者としては普通の歌集のように統一した主人公の存在を想定するのが難しい。つまりこれは「青春短編小説集」なのだと、合点して読むのであるが、ところどころに「千葉君」「千葉さん」という主人公の名が出てくるのをみると、作者としてはやはり主人公は同一人物なのか……。このあいまいな構造は第二歌集の序盤まで続く。今日の一首はその中の「靴麿くつまろ」という風変わりな友人との物語で、「もっと激しく不揃いでいろ」という檄はつまり靴麿に向けられたものであった。

しかし今、千葉聡という歌人の仕事をふりかえると、この一首を号砲のようにして、「青春短編小説集」は終りを告げ、次の連作から教員生活をうたう作品群に突入していることがわかる。我々のよく知る「ちばさと先生」の誕生である。「千葉君」たち●●の青春短編集から、いびつに光る生徒たちの青春をまなざす国語科教員「ちばさと」の世界へ。「新潮文庫の上辺よりもっと激しく不揃いでいろ」。その転換を自らにうながす檄として、なるほどふさわしい一首のように思えてくる。

*『微熱体』の引用は現代短歌クラシックス版(書肆侃侃房、2021)によった。

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