向こうから泣く声がする 百円のマグロいくつもいくつも食べる

郡司和斗『遠い感』
(短歌研究社、2023)

回転寿司店と想像するが、マグロばかりとって食べるというのも異様なのに、それをだれかの泣き声を聞きながらというのだから、はっきりとなにかがおかしい。回転寿司ならば、泣いているのは子供だと考えるのがもっとも自然だろう。しかし、今日の一首ではただ「泣く声」とあるだけだから、私は当初、主体の近くの席の、だれか大人が泣いているのではないか、と考えてしまった。「泣き声」ではなく「泣く声」としているのも、そのイメージを誘発する。生理的現象としての「泣き声」ではなく、なにか意志をもって泣いているような、印象を与えるのである。しかし、主体にとってその声はあくまでただの「泣く声」であって、誰が泣いているのかということには頓着しないようにも見える。

十月の満月 総理大臣のやりがいを語っている両親
片思いのままいくつかの片思い 冬の桜の木をかいでいる

『遠い感』の、いわゆる二物衝突のテクニックを用いた歌たちには、まことに不思議な取り合わせが多い。たとえば二首目、たしかに片思いなら何股をかけようが自由なのだし、それはきっと一首の歌にする価値のあるぼんやりとした明るさを持った事実である。しかし、その下に続く「冬の桜の木をかいでいる」、この謎の行動はなんだろう。犬の散歩をしているのだろうか。だったらそう書くべきではないのか?

この謎を解くひとつのヒントは『遠い感』という歌集のタイトルにあると、私は考えた。

近い感 草むらにカップ焼きそばのお湯を捨てたら先に食べてて
遠い感 食後にあけたお手拭きをきらきらきらきら指に巻いてる

この二首が集中のばらばらの場所に収められている。もしかすると、この「近い」と「遠い」のちがいもさほどの意味はないのかもしれない。近い、遠い、と言っている以上、いずれにせよ、そこには距離が介在している。つまり、主体は目で見、耳で聞くこの“世界”という現象に直接に触れることができていない、そんな感覚があるのではないか。近い感と遠い感、それはまるで、発作のようにしばしば語り手を襲う感覚だ。友人と道端や公園で食べるつもりでコンビニに買うカップ焼きそば、また別の場面で、すっかり食事を終えてからそこにあったと気づくお手拭き。そんな卑近な世界と自分との間に越えることができない、ときには非常に分厚い、透明な壁があるらしい。

この不思議な二物衝突がさらに存在感を放つのは、「顔にさわる」という主人公(主体)の祖母の死から葬儀までが描かれた一連。

おばあちゃんの頬はつめたく壁越しに聴こえる鬼滅の刃OP
ふつうにもっと長く生きられたんだけど、ふつうにもっと 石油ストーブ
売店にヨーグルッペが売ってない昨日に来ればお見舞いだった

おばあちゃんの頬に触りその死を実感する、ある種神聖な場面。その様子を、〈ガラスの壁〉の外側で見聞きしながら記録係の役割を果たす主体は、隣の病室から漏れてくるアニメのオープニングテーマまで書き留めてしまう。その後も、石油ストーブ、ヨーグルッペといった、たまたま映りこんだエキストラのようなモチーフを、主人公にとって本当に大切だったはずの事物や想念と、まるで等価値に歌にしていく。これにはおそらく単なる二物衝突という歌のテクニック以上の意味がある。つまり私たちはここに、刻々と変化してしまう世界に直接参与できない、かすかな焦燥のようなものを読みとるべきなのだろう。「ふつうにもっと長く生きられたんだけど」という誰かの発言を反芻し、「昨日に来ればお見舞いだった」と後悔する。そこには変化する世界に対抗しようというかすかな意思が読みとれる。絶えず変化するガラスの向こう側の世界を引き留めることができないのはわかっているのだけれど、アニメや、ストーブやヨーグルッペ、そんなものを自分が知っていたはずのかつての世界の痕跡としてたよりながら、せめて世界を見続けようとする。

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