うるせえぞおまへ、挽歌詠んだろか。花のなまへをつけてやらうか

伊豆みつ『鍵盤のことば』
(書肆侃侃房、2021)

『鍵盤のことば』といえば、よく引かれるのが次の一首。

われを綺麗だとか綺麗ぢやないだとか全員そこへなほれ さちあれ

歌そのものの巧みさ、おもしろさもさることながら、頼んでもいないのに(男たちの設定した)勝手な尺度をあてがわれ、たえず視線を浴び品定めをされる理不尽、そういった社会的文脈の上でも語ることのできる一首である。しかし、最後のどんでん返しのような「さちあれ」だけはその社会的文脈のみでシンプルには読みこなすことができそうにない。敵であるはずの男どもに「さちあれ」なんて言ってやるのはなぜなのか。最終的にはこの歌の、独自の文脈に還ってこなければ読み切ることができない。そう簡単には読み崩せない、存在感のある一首である。

さて、今日の一首は、その「さちあれ」の歌に構造としてよく似ていると思う。黙って聞いてりゃあ……と説教を始めるような調子で語りはじめ、そしてやっぱりどんでん返しが来る。——花のなまへをつけてやらうか。

花の名を呼ぶかのやうに歌ふから耳がすつかり咲いてしまつた
まあまるでお花のやうに雨粒を飲むのですね、ゆとりせだいね
あらゆる花に対し、あらゆる花を模したおまへに対し、跪くのみ
愉しいね花を手折れば萎れるし人を殴れば死にたくなるし

この歌集にたびたびうたわれる「花」は、根本的には愛情の対象でありながらも、しばしばそれを軸にして敵と味方が、自分の価値観と誰かに押し付けられる価値観とが反転してしまうような感触がある。ここに引いた二首目は、自分なりに目の前のことを愛そうとする(お花のやうに雨粒を飲む)態度を大上段から否定する言説で、それは「ゆとり」という本来よいはずのものが否定的な決めつけに使われていたことにそっくり重なる。対して、一首目のまるで「花の名」を呼ぶように歌うというのは、その「歌」がいかにもいとおしそうに誰かを求めているように聞こえるということであろうか、耳をあからめるように喜んでいる主体の姿が見えてくる。

だから掲出歌の「花のなまへをつけてやらうか」は、単にきれいな名前をつけてやるよといっているのではない。私が君に呼ばれたい名前で——呼ばれたら耳が咲いてしまうような名前で——、君のことを呼んであげるよというニュアンスが含まれると考えてみたい。私は先に、「花のなまへをつけてやらうか」をこの歌のどんでん返しだと書いたけれども、よくよく考えれば前半の「おまへ、挽歌詠んだろか」にだって、ぶっ殺してやろうか、くらいの意味に捕らえてしまうのではもったいないのかもしれない。ここにも愛情がこめられている。挽歌をうたってやれるまで、ずっと君のことをみていたい、そういう願いが込められているのではないのか。

もっとも、「うるせえぞ」と言われた「おまへ」(君)のほうも、こんな歌が飛び出さざるをえないくらいの相当な口撃を仕掛けたのだろうか。「さちあれ」の一首が男どもを「なお」らせていたのに対し、こちらの敵は「おまへ」ひとりのように読める。売り言葉に買い言葉でたかめられていく、口の悪い愛の世界。

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