『つきかげ』齋藤茂吉
齋藤茂吉には日付の入った歌が少なくない。これは「強羅雑歌 昭和二十四年七月十九日より」と付された章の一首。茂吉は昭和二十二年に疎開から帰った後、年中行事である夏の箱根山荘暮らしを復活し、この二十四年は七月十九日から九月十五日まで滞在したが、ここで百二十八首の大作を作りあげている。戦後の夏の日々の、茂吉の鬱々とした心境が底ごもる声となって歌われているが、この一連にはまたみんみんや蜩や油蟬など多くの蟬声が寄り添うように響いている。「八月二日ゆふまぐれ」に、「入日にむきて」鳴く蟬の声は、「みんみん鳴くただひとつ鳴く」と繰り返されながら淋しげだが、それは茂吉が自身の姿をそこに見ているからでもあろう。一首のしらべをぽつぽつと切っていることも何かはかなく、このはかなさが茂吉の生の息遣いとして響いてくる。しかしこの数首前には、「くろぐろとしげれる杉のしたかげにいまだも清き未通女(みつうぢよ)のこゑ」という歌もある。未通女とは処女のこと。茂吉は蟬の声ばかりを耳に止めていたわけではないのである。『つきかげ』は昭和二十九年(一九五四)、茂吉の死の翌年の刊行。