高柳蕗子『ユモレスク』
(沖積舎、1985)
猫の肉球がどんなにかわいくても「美しい手」とはいわない。ここにうたわれている美しい手をした生き物とは、やっぱり人間なのだと思う。そうして、かなしいかなどうしても「美しい人」をイメージしてしまう。大富豪が無人島を所有するように、アマノジャク男爵も自分専用の避暑地ならぬ「避暑惑星」を持っているのだろう。そこに棲まわせる「美しい手の生き物」についてみんな噂している。でも誰も現実にはそれを見たことがない。
たいていの読者はきっと、この歌の「手」に注意を引かれると思う。美しいのが「手」だなんて、そんな、まさか、要はその人ぜんたいが美しいわけでしょ? その人の存在自体の神秘を、手というスポットへの言及で漂わせる。そういう高度な技なのだが、しかし、よくよく考えると、男爵やその「生き物」について噂をする人々にとってみれば、重要なのは「美しい」の方ではないかという気がする。
「美しい」なんて安直な言葉は、あまり歌に使わない方がいいと私個人としては思っているのだけれど、この歌の「美しい」には、噂をする人々がとりあえず「美しい」とラベルを貼っておくことで、アマノジャク男爵を敬して遠ざけているような効果を生む。ボクたちは「美しい」なんてよく知らない、でも男爵さんは今どき珍しい「美しい」の愛好家のようだね。そんなふうだから、「アマノジャク」などとあだ名をつけられるんだ。
さて、前提の話が遅れたけれど、この一首は、『ユモレスク』中の「スペース・ララバイ」という全二十四首の一連におさめられている。どうやら人類が宇宙のあらゆる星にちりぢりに移民し、地球での暮らしも、そこから大勢で出立し、星々を開拓していった歴史も断片的にしか残されていないような、遠い遠い未来を描いた叙事詩であるようだ。
第三次星間移民船団を祖とあおぐ由緒正しい海賊
飛行士もコックも僧侶も夢に泣く巨大な船は子守歌の時間
戒律のきびしい宇宙の隊商はしのび笑いも堕落のしるし
牧童が地球の悲しい物語せがむ射手座の星牛牧場
人類の無用の過去を消すためにやとわれたわれら惑星破壊技師
SFに登場しそうな「第三次星間移民船団」なる華々しい名を掲げた移民たちの集団。しかし、その希望に胸を膨らませ最新鋭の宇宙船に乗り込んだであろう人々の(自称)末裔は今や海賊であるらしい。ここに描かれる星々の社会にも、「由緒」といわれうるほどの歴史があり、僧侶がいて、戒律がある。どの星に築かれたコミュニティも、もうとっくの昔に全盛を過ぎてしまって(もっとも全盛なんてこなかったのかもしれない)、緩慢にさびれていくだけの怠惰な雰囲気がこれらの歌からは見て取れないだろうか。叙事詩に「ララバイ」とタイトルをつけるのは、この社会がまさに眠りへと向かっているからだろう。
最後に引いた「惑星破壊技師」の歌にいう「人類の無用の過去」とは、まだ地球に棲んでいたころの人類の長い歴史であろう。地球を飛び出し宇宙へと移民した人類は、地球時代と宇宙入植後の二層構造の歴史を抱えている。歴史を抱えながら生きるのは、人間にとって苦しいことだ。ふたつの歴史などいらない。だったらだれもはっきりとは覚えていない古い方のそれは、地球ごと吹き飛ばしてしまえばいい。そんなたくらみがあるのではないか。
地球にもまだ人が残っているのではなどと心配する感性はここに描かれた宇宙時代の人々にはないし、地球を破壊すればその地球に生きた歴史が消せると本気で思っている。それほどまでに感性の鈍麻し、昔ながらの方法で人を愛することさえも難しくなった時代、アマノジャク男爵ただひとりが「美しい手をした生き物」を自分だけの場所に隠し持っている。
*引用は『高柳蕗子全歌集』(沖積舎、2007)によった。