大下一真『存在』
(不識書院、1988)
そういえば以前、小坂井大輔の『平和園に帰ろうよ』(書肆侃侃房、2019)から、
空き缶を踏みつぶす音 この親にこの子と決めた神のゆびさき
という歌をとりあげたことがあった。無力な人の、その人生の出発点をつぎつぎ手際よく決めていくような「神」の指の動き。かたや今日の一首は、そうやって決定された人生を黙って受け入れ(もっとも作者は臨済宗の僧侶であるから決定の主体を「神」としてしまうのはふさわしくないのかもしれない)、さらには祖父の代までさかのぼってその「決定」の見取り図を眺めるように地図をひらく、そんな地上の人間の手の動きが詠みこまれている。
しかし、よくよく考えてみると不思議な情景ではある。長い長い身の上話のはじまりに、私の祖父はもとは天草の出でしてね、というような語りをすることはたしかにあるのだろう。しかし、そこでわざわざ地図という小道具を取りだすのは、ちょっと演出の入っている感じ。「天草」と言いながら、その人が九州の大きな地図を広げると、カメラはその地図の天草の部分へとどんどんフォーカスしていく。地図の海はいつしか、波の立った暗い海の画にさしかわる。その大仰さが、かえって闇の奥から人の生が生じてくるようなドラマと、何も知りえないまま静かに受け入れる人間の在り方、そのコントラストを劇的に際立たせている。
この歌は、『存在』という第一歌集の「青き闇」と題された一連にある。前後には、
父母未生以前の闇に聞くごとく彼方寄せては返す潮騒
湖の青き水面に降る雨に生れては消ゆる波紋幾万
といった歌があって、これらが今日の一首を両側からいくらかわかりやすく解説し、また補足している印象がある。地図である以上、「紺青の海」と暗く、静かに横たわっているように見えたその海は、この二首では、「潮騒」「波紋千万」と、荒波ではないのだろうが、たしかな表情を持った実写の海(湖)に差し変っている。特に今日の一首を「父母未生以前…」のほうと併せて詠めば、「島より先」にある「紺青」の海とは、もちろん二代先の祖父さえ生まれる前、自分などこの世に影も形もなかった時代、そこには自分にとって真っ暗闇のような不可知の世界が広がっているということを言っているのがわかる(「父母未生以前」は仏語で、「父母もまだ生まれない前」さらには「本来の自己」という意味だと辞書には説明されているから、読む側としては祖父と父母のちがいにはあまりこだわる必要はないのだろう)。一方、「波紋幾万」のほうは、そんな不可知の水の上にできてはまたたくまに消える波紋のように、人というのは無力でつかのまの人生を生きているのだということを語っているのだと思う。
にんげんの無数の吐息とじこめて宇宙という名の空間がある
僧形も仮の姿の現し世に汝を抱きて闇あつきかな
一本の竹が一生に受くる風の量など思えり夜を一人いて
もっとも、人生のはじまりとか、海とか、壮大な観念と切り離しても、この歌集の主人公には闇がずっとついてまわる。それはふと気づいたときには必ず主人公を包囲していて、自分にはわからないもの、どうしようもできないことがあると突きつけてくる。一方で、この歌集『存在』を何度か読み返しながら、あるとき、強すぎるほどの陽ざしが差し込む次のような歌があるのを見つけたときにはちょっとした感銘を受けたのだった。
しんかんたる真夏まひるま街角より僧形の兄笑みつつ来ずや
亡くなった兄が生前のとおりの僧の格好で、ふいに帰ってきてはくれないだろうか。紺青の暗い海ではない、さんさんと陽の降り注ぐ街角の人の群れがふいに静まり返って、その人が帰ってくる。人間の希望は、そういうかたちをしている。
